今日は「世界宣教の日」です。
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。
さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。
そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」
二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。
3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
教皇様はこう言います。
「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。
(4つ目「愛をあかしする」)
「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。
終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
(今日のミサ献金について説明。)
教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。
今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。
そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』