2018年10月7日日曜日

年間第27主日

今日の典礼のテーマは「結婚と夫婦」について。
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。

この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。   
 今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
 当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。

 ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
 ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。

 福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
  最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
  私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』