2018年9月30日日曜日

年間第26主日

”祈り”とは「神の語りかけに耳を傾けること」
今日の福音でのイエスの厳しいことばは、
「何よりも大切なことは神の国に入ること」と私たちに語りかけます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんもニュースを聞いて驚いているかもしれません。まだ、北海道では余震が続いていますが、一昨日インドネシアでも大きな地震があって、多くの犠牲者が出たというニュースが流れていました。私たちもつい先日、大きな地震の体験をしたばかりですが、インドネシアの人々へ向けても祈りを捧げましょう。

さて、先週は司教様のミサになりましたので、先延ばしになってしまいましたが、トラピストでの黙想会のことを少しお話したいと思います。
私たち教区の司祭は毎年、教会法に定められているとおり、最低1週間は黙想会に参加します。今年も月曜日から土曜日までの1週間の黙想を終えました。
「キリストへの愛は祈りのうちにある」という修道生活の毎日の日課は、祈りを中心に展開しています。聖ベネディクトの精神に従う修道会の中心的な標語、皆さんもこの言葉を聞くと思い出すかもしれません。「祈り、かつ働け」(Ora et Labora)、こういう標語がトラピストの毎日の生活の中で大切にされています。
北海道にはトラピストとトラピスチヌがありますけれど、男子のトラピスト修道院の方が先に創設されており、1896年(明治29年)10月に修道士9名が日本に来て始まっています。それ以来、一日7回の祈りと労働を中心にしたシンプルな生活が今も続いているのが、トラピストとトラピスチヌの修道生活のようです。

この度の教区司祭の黙想会の中で、修道士のお話を聞く機会がありました。私はその修道士が話したひと言が心に残っています。修道士のひと言は「(祈りの基礎は)一人一人に語りかけられておられる神のことばを聴くことです」というものでした。
”祈り”については、いろいろな説明ができると思います。祈りとは、神への賛美や感謝であると同時に、私たちの願い事や希望をより頼むこと。皆さんもそのように考えておられるのではないかと思います。
しかし、修道士から聞いたひと言である「神の語りかけに耳を傾ける」ことも祈りであるということは、とても私にとって心に残る言葉でした。何故ならば、私自身そのことを少し忘れていたような気がします。神様にお願いすることの方がほとんどになっていたかなという思いがあります。神の語りかけに耳を傾けることに時間を割いていたかどうかを考えると、そのことを意識することを忘れていたような気がします。これからは少し神の語りかけにじっと沈黙し、黙想することも大切だということを心に留めておきたいと思っています。
今、自分が置かれている状況は一人一人様々だと思いますけれど、その一人一人に語りかける神の御旨に心を向け、「神は私に何を語りかけて下さっているだろうか?」そのことも大切にしたいと思います。もちろん神のことばに心を向け耳を傾けるということの中では、聖書をとおしての語りかけもあるということを忘れてはなりません。また自分の仕事や奉仕をとおして、出会いをとおして、神が私たちに語りかけておられるということも心に留めておくべきではないでしょうか。
そのためにも、信仰による従順や謙遜が大切であるということは、いうまでもありません。このことを忘れたならば、先週の聖書のお話のように、神が大切なことを話したとしても、無関心な状況の中で耳を傾けることもできなくなります。
イエスは、受難について弟子たちに話されましたが、弟子たちはそのことに無関心であった。弟子たちの関心ごとは、自分たちの中で「誰がいちばん番偉いか」ということに心を向けていたので、イエスが受難について話してもそのことを受け入れることが出来ませんでした。まさに信仰心の従順や謙遜を忘れた弟子たちには、イエスのことばが届かなかったのだと思います。私たちの信仰生活、私たちの祈りを振り返って考えてみることが必要だと思います。

さて、先週の聖書の語りかけに続いて、今日私たちに語りかけられたみ言葉を皆さんはどのように受け取ったでしょうか。
弟子のヨハネがイエスにした報告から今日の福音は始まっています。ヨハネはイエスにこのように言いました。
「わたしたちの仲間でもないのに、先生の名前を使って悪霊を追い出している者がいたのでやめさせました」
ヨハネのこの報告の内容、言い方は、ちょっと気になるような内容ではないでしょうか。それは、イエスの心の内を理解することなく、弟子たちの競争心で”どちらが偉いか”と話していたにも関わらず、自分たちの味方なのか?自分たちに反対する敵なのか?と狭い心で自分の周りの人たちを見ているヨハネではないかと私は感じました。

イエスはそのことに対して話をしています。そこにイエスが真に弟子たちに、きっと私たちにも理解して欲しいことが語られているような気がします。
イエスは「小さな者をつまづかせることのないように」と言って、地獄について語ります。「神の国に入れるのか、それを失うか」ということを話されます。
自分をつまづかせるものが私たちの”手”や”足”や”目”であるならば、「それを切り捨てなさい、えぐり出しなさい」と言います。とても厳しい言葉になります。どうしてこれほど厳しい話をされたのか?そのことを私たちは考えなければなりません。そこにイエスの伝えたい真の意味があるかのように私は感じます。きっと、”何より大切なことをする”ということからこんな言葉が出てくるのだと思います。
「人間の最大の価値が神の国に入ることであり、それを失うことは最大の損失になる」
そういう意味で、あのような厳しい言葉が出てきていると感じます。

厳しい勧めであるかもしれません。私たちが大切だと思うもの、それがつまづきとなるなら思い切って切り捨てなければならない。自分に当てはめても「厳しいな」と考えてしまいますけれども、私たちの現実、そして自分の思いは、どこにあるのか?ということを指摘されているような気がします。
誰でもがこの世で生きてきて、大切なものへの執着というものを持っていると思います。それが現実だと思います。家族であったり、友達であったり、愛する人であったり、一人一人様々なことが大切だと思います。物に対する執着もたくさんあろうかと思います。お金に対しても切り捨てることができないのが現実でしょう。
でも私たち信仰を生きる者にとって、「神の国」や「永遠のいのち」がどこまで大切かということと比較しなければ、イエスの真意もまた、うわの空になってしまいそうな気がします。

今日、私たち一人一人に語りかける神のことばを受け入れ、理解し、「神の国」と「永遠のいのち」を心から願いながら、それ以外の大切なものに執着する私たちの心を解放してくださるように祈りたいと思います。』