2018年9月2日日曜日

年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

藤女子大学講堂で札幌地区使徒職大会が開催されました。



開会式の後、この1年の間に受洗された76名の方々のお名前が読み上げられご紹介されました。勝谷司教様から「新しく洗礼を受けた方々は、私たちの”宝”です。受洗者の方々がなぜキリスト者の道を選ばれたのかを知ることは、私たちの信仰も新たにしてくれます」というお言葉がありました。

続く講演会では、高円寺教会主任司祭 吉池好高神父様が「家庭:信仰伝達の場」と題して、教皇フランシスコが示された使徒的勧告「愛のよろこび」について、ご講演されました。


吉池神父様は、主日ミサでもお説教をされましたのでご紹介します。


『主イエスのみ言葉は、それが私たちの耳にはどのように厳しく聞こえようとも、そのみ言葉の前に頭を垂れて、真実それを受け入れることが出来るとき、それは私たちに福音の喜びをもたらすみ言葉となります。

今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたみ言葉も、私たちにとっては、そのようなイエスの福音のみ言葉です。
これらのみ言葉を福音として受け止めるためには、ファリサイ派の人々に向けて語られたそれらのみ言葉を私たち自身の在り様を指摘し裁くみ言葉として、謙虚な心を持って受け止めなければなりません。

福音書の中のイエスのみ言葉は、どれも私たちの在り様を裁くみ言葉です。何故なら、み言葉を聞くとき、私たちはイエスが指摘しておられるとおりの自分自身の在り様を認めざるを得ないか、イエスが指し示す在り様には生きられていない自分を認めざるを得ないからです。
み言葉を聞くとは、イエスがそのみ言葉によって指摘している私たち自身の在り様を謙虚に認め、その先にイエスが示す新しい生き方に向かってイエスに導かれて歩み始めるということです。私たちがそのことを受け入れることが出来るとき、イエスのみ言葉は私たちを喜びで満ちた新たな生き方に向けて導く福音のみ言葉となるのです。

今日の福音に登場するファリサイ派の人々が、その生き方によって目指した世界は、私たちが知らず知らずのうちにその中にどっぷりと浸かって生きている、今も私たちを支配している価値基準に基づく世界です。そこでは昔の人の言い伝えに基づく社会的規範が、事の善悪、人の優劣を決定づける規範となります。
今の私たちを取り巻く状況はもっと深刻で、今の私たちの社会の問題はその様な価値基準が崩れ、それに基づく社会的規範は効力を持たなくなってしまっていることに原因があると私たちは心のどこかで思っています。
けれどもそのような私たちの内に、ファリサイ派の人々がその生き方を通して目指した昔の人の言い伝えに基づく社会規範の再構築として、掟厳守の社会の実現への郷愁が息づいていることに気付かざるを得ません。けれども、まさにそのことによって、私たちはファリサイ派の人々が理想としていた生き方に向かって再び歩み始めることになってしまいます。

昔の人の言い伝えによる価値基準と社会規範に基づく掟厳守の理想は、それが如何に妥当なものと思われようとも、イエスがもたらそうとしている福音に基づく生き方からは遠くかけ離れていることを今日の福音から私たちは学ばなければなりません。
昔の人の言い伝えを重んじて、社会規範としての掟厳守の理想を生きるファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちの中に汚れたままの手で、手を洗うことなく食事の席についているのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。」と、イエスに質問します。このようなファリサイ派に対するイエスのみ言葉は、どこまでファリサイ派の人々の心に届いたのでしょうか?今日の福音を聞いている私たちの心にもどこまで届いているでしょうか?

イエスは、イザヤ預言者のことばを引いて次のように言われます。
「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、 人間の言い伝えを固く守っている。」
ここにイエスの目に映っているファリサイ派の人々の姿があります。そして、そのファリサイ派の人々の姿は、私たちの在り様とも無縁なものではありません。

神の掟が私たちの心の深みにまで届かないとき、神の掟の深みが私たちの心を揺さぶることを止めるとき、昔の人の言い伝えは神の掟との繋がりを語る”人間”の戒めに過ぎないものになってしまいます。そしてそれは”人間”の戒めであることによって、私たちの心の深みにまで届くことなく、守るべき規律・規則となってしまいます。
守るべき規律・規則が必要ないということではありません。けれども”人間”の戒めに過ぎない規律・規則は、あまりにも表面的なものであることによって、心の深みに届くことなく、その前で心底私たちの頭を垂れさせる力を持ってはいません。それが力を持てば持つほど、表面的な規則や規律は、私たちの心に呼びかける神の声に対して、私たちの心の耳を閉ざさせてしまいます。

こうして、私たちの社会の規範となっている人間の戒めは、それを守るか守れないかの目安となって、神の掟に代わって人を裁く道具となってしまいます。
神の掟を完全に守っていこうとする人間の善意から出発したはずの言い伝えを拠り所とする”人間”の戒めは、私たちの中から神の掟がそこで働くはずの私たちの心の内面を閉ざしてしまうのです。

今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたイエスのみ言葉は、そのようなことを指摘しています。そしてそのみ言葉は、今のこのような時代を生きる私たちの心にも届くはずのみ言葉です。
神の掟は、それが神の掟であることによって、この世に生きる私たち全てのものに、それに従うことを求める普遍性があります。その前に、全ての私たちの頭を垂れさせる力があります。

誰も神の掟に完全に従うことはできません。自分の内面に立ち返って真実自分を見つめるならば、誰でもそのことに気付くはずです。
今日の福音のイエスのみ言葉は、私たちにそこに立ち返るように求めています。
人間の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、それを教える者と教えられる者との間に断絶を生みます。
何故なら、今日の福音に登場するファリサイ派の人々の姿勢が示しているように、それを教える者は教えた者達が、教えられたことを守っているかどうか、いつも神経を尖らせていなければならないからです。
そのようにして、人の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、教える者と、教えられる者との立場を固定化し、その双方に深みのない掟に頭を垂れて、自らを省みる道を閉ざしてしまいます。

今日も私たちは、神の御前にそれぞれの在り様を振り返り、神の御前で等しく罪を告白し、赦しを求めあって、このミサを始めました。
主の祈りをともに唱え、神の赦しの恵みの中で、互いに赦し合うことが出来ることを祈り求め、神の愛と赦しの秘跡である聖体に近づくために、立場の違いを超えて、平和の挨拶を交わし合います。
ここにイエスが私たちを招いておられる世界があります。私たち全ての者が神の掟に従いきれない現実を知っておられ、そのような私たちを愛を持って裁き、その裁きを信じ受け入れる者達を愛の赦しの中に招き入れてくださるイエスの心に少しでも近づくことが出来るよう、このミサをともにお捧げして祈りましょう。』