2018年9月24日月曜日

年間第25主日

この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。


この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
勝谷司教は10月にローマで開催されるシノドスに日本の代表司教として参加予定です。
この日のお説教では日本の公式回答書の内容についてお話されました。

この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。


『来週半ばから、世界代表司教会議(シノドス)が開かれます。今回のシノドスのテーマは、「青年、信仰と召命の識別」です。このシノドスは10月3日から28日までおよそ1ヶ月かけて、世界中から集められた青年の現状についてのレポートを基づいて制作された討議要項、これが215の項目に分かれています。それを1ヶ月かけて最初から討議していくのです。それぞれの項目について各国の司教団は4分間、意見を述べる時間が与えられています。たった4分です。4分というとだらだらと話すのが私たちの傾向なのですが、今まで参加した司教様の話を聞くと、30秒前からカウントダウンが始まって、4分になると完全にマイクが切られるとのこと。
  4分間話すとなると、ひとつのことについて中心的に話すことになります。10分の説教をまとめるのに難しいのに、4分で現状や一番言いたいことを話すことは困難です。私はこのシノドスに代表として派遣されることになっていたので、4分間の原稿を作るように司教団から仰せつかっていました。215項目はA4にして約60ページ以上のもので、まずは読めません。十分に読みこなしているわけではないのですが、すでに日本の青年の現状はナショナルレポートで報告してありますので、私が一番関心のあるキーポイントでまず原稿を準備したのです。

  それは、この討議命題に掲げられていた、今後の青少年の司牧はもはや小教区で行うことは難しくなっている。すでに小教区では青少年を指導する現場ではなくなっている。しかし、ミッションスクールにおいては多くの青少年が話を聞く場を持っている。そこが新たな宣教や青少年を司牧する現場となりうるのではないかと書いてありました。しかし、そこに抱えている前提は、欧米諸国のキリスト教圏のミッションスクール、あるいは発展途上、今発展している東アジア、東南アジア、南米、アフリカ。こうしたミッション校の生徒、先生はほとんどが信者です。その現実のもとで書かれている。
 日本では違うぞと言える点はこの辺だなと思い、日本のミッションスクールはその経営母体である修道会の高齢化によって、修道会が経営を維持すること自体が困難である。司祭、宗教家である先生はおろかチャプレンも派遣できない学校が非常に多くある。そんな中で生徒に信者はほとんどいない。教職員も信者がいない。最近は校長も含めた管理職にも信者でない人が出てきている。その中でどうしてミッション性を保つことが出来るのか。かたや、日本の小教区ではご存じのように深刻な少子高齢化の流れの中で、青少年は教会の中で見られなくなっています。しかし、豊かな人生経験、教職についていた人や知識をたくさん持った人がいる小教区。しかし青年がいない。かたやカトリックの関係者はまったくいないけれども、青年のたくさんいる高校。そういうところとコラボして何か出来るのではないか。その例として年頭書簡にも書きました函館の例。複数のミッションスクール、複数の学校。チャプレンはいませんが、函館の場合は白百合とラサール。そのふたつの学校のカトリック研究会の活動の場を湯の川教会に置き、2ヶ月に一回は彼らが企画したミサを行い、バザーやそのほかの教会の企画にも参加してもらう。フィリピンエキスポージャにも企画して参加してもらう。フィリピンエキスポージャの小教区からの応募はゼロです。ミッションスクールから信者でない生徒の参加で延々と行われています。  まとめながら、現状から新しい可能性として、小教区、教区そしてミッションスクールがコラボすることにより、小教区が活性化し、ミッションスクールもそのミッションの使命を果たすことになるのではないかと4分間にまとめ……。これだけの話で4分間が超えるのですが……。日本の現状は討議命題に書いてあることと違うだろうと説明するのが長くなり、否定的な現実をまず理解してもらわなくては……。最後の数行に今のようなことを書いていますから……。司教団からこれはだめだ。悲惨な日本の現実ばかり書かれていて、希望が見えない。もっと、違うことを書いてくれと言われて、別な命題で書くことにしました。

 それが今日から京都で行われている「ネットワークミーティング」……青年の集まりです。これが日本の教会の特徴です。これについて発表することでまとめました。司教団から2回の校正がありましたが、シノドス原稿としてほぼ決定しました。どういうことを言うのか、皆さんに先にお聞かせしようと思います。
 2001年からこのネットワークミーティングは始まりました。これは日本の青少年委員会が閉鎖されて、各教区に青少年の役割が任されることになったときに、小さな教区では独自に青少年活動を行うことができないので、複数の教区が連帯して青年連絡協議会というものが担当者によって結成されました。最初は6つの教区から始まったのですが、その担当者の会議の時に併せて青少年も呼んでミーティングを開こうではないか。そういうことから全国各地から青年が集まるようになりました。今は年2回、全国各地で行われていて、100名以上の青年が集まっています。年頭書簡にも書きましたが、昨年は支笏湖で150名の青年が全国から集まりました。札幌の青年はどこにいたのか分からなかったのですが、25名が実行委員として活躍し、その姿に私も驚いたのです。そのことからも言えるように、青年はたくさんいて活動もしています。自分たちがそれぞれ勝手なことしているかと言うと、実はそうではないのです。小教区にはいられないけれども彼らは、自分たちのミサを真剣に準備している。毎日、夜も準備して、赦しの秘跡の時間もつくる。非常に信仰や秘跡について真剣に求める姿を見ていると、彼らの中にあるカトリック信者であるという強いアイデンティティ。しかし彼らの中には、教会や教会の組織に帰属している意識は非常に薄いのです。年頭書簡にも書いたと思いますが、150人の中で小教区に所属して何らかの奉仕活動をしている人は一人もいませんでした。小教区に貴族しているという意識が非常に乏しい。でもそれが現実であってそれを認めなければ、小教区に戻れという指導をしたら、彼らは行き場を失ってしまう。私は書かなかったのですが、ほかの司教様からも手直しがあって、結論というのは、もはや小教区で青年を司牧するとは現実でない。もちろん小教区で青年が活動することは当然の願いですが。現実は日本、世界の先進諸国ではそうなっていない、この現実から出発しなければならない。しかし、強いカトリックの意識を持っていながら、真剣に自分の人生をどう歩むかと選択しようとしている彼らはいろいろな場をとおして、その導き手を求めているのです。しかし、残念ながら日本を含めた多くの国の教会は、青年たちのその選択をするにあたって、助けてもらいたいと相談を持ちかける対象となっていない。そういう現実が討議要項の命題に書かれています。そしてその原因は、青年が教会から離れていったのではなくて、今、青年が何を求め、どのような問題に直面しているのか、それに対して教会があまりにも無関心で、その中に関わろうとしない。つまり、これは教会の青年離れ。
 現実を言うならば、このネットワークミーティングの青年たちはSNSと言われる、今のネットの社会での関係の中で強く結びついています。私たちは地域に基づいた小教会として物事を見て、その中でいろいろなことを考えようとしていますが、青年は地域を越えている。小教区や教区も越えて、全国的に青年同士と結びあっている。そして、集まりがあればそのときに旧交を暖め、そして刺激を受ける。何人かはそこにおいてワールドユースディ(来年パナマであります。)などに出かけて行く。自分たちの人生の指針を得ようとしています。今、教会が非常に討議要項で繰り返し繰り返しオウム返しになって述べるのは、この青年に同伴することが大切だ。教会が青年が来るのを待っていて、来ない来ないと嘆くのではなくて、自分から出かけて行って、彼らは教会とは違う言語の中で生きている。ネットの世界で生きている。そこには多くの危険性があります。消費主義や世俗主義の中で看過されていく青年たちもいます。その中にあって、むしろそこに出向いて彼らに同伴し、彼らとともに悩み、話しに耳を傾ける。そして、いっしょに人生を歩もうとする同伴者となる、しきりに言われています。
 今日の福音書では仕える者になるということは、かつての教会が聖職者というものは教えに関しても絶対権威を持っており、いわば救いに関わる問題について、悪い意味では社会に対して命令し支配する関係にある。救いに関わる権限をすべて持っている。神の恵みは秘跡を通して、司祭を通して分配されると教えられていた時代、確かに権威は尊敬すべきものであり、絶対服従しなければならない権威があったわけです。第二バチカン公会議はそうではない。命令し支配するのではなくて仕える者として、先ほどの言い方をするならば同伴する者として……。司祭と信徒の召命の違いは質の違いではなくてその役務、役割の違いである。特別な役割の最たるものは共同体のために奉仕する者。そういったことで召されているのを忘れてはならない。それが強調されているのは青年との関わりであり、青年は権威主義は嫌いますから、彼らに同伴することが必要であるのと同じように、青年というものは今の教会を敏感に反映しているものである。炭鉱においてカナリアが死ぬと、有毒ガスが発生して真っ先に弱いカナリアが死んでいく。それを見てみんなが避難する。教会において青年はカナリアみたいものだと随分前から言われてきました。つまり、教会に青年がいないのはどこか病んでいる。そういったことを表している。私たちはそれに気づかずにずっといると、(一酸化炭素中毒で)気を失って命を失いかねない。
 青年たちが私たちに対して訴えていることが何であるのか。今、教会は真剣にこのシノドスの機会をとおして耳を傾けようとしています。私たちの教会もこの現実を受け止めながら、それをとおして神が何を私たちに教えようとしているのか。しっかりと識別する耳に願いを込めていきたいと思います。
 同時に、来月1ヶ月間のシノドス。私、たった一人で行きます。日本は信者が少ないので、信者の数で各国に割り振られますので。心ぼそい私のためにもお祈りをお願いしたいと思います。』