2018年9月17日月曜日

年間第24主日

「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」
この日朗読された「ヤコブの手紙」を深く心に留めておきましょう。


夏休みが終わり、簑島助祭がこの日神学校へと戻りました。
簑島助祭は、いよいよ半年後に司祭叙階式を迎えます。神の恵みが豊かに注がれ、司祭への道を歩まれますようお祈りいたします。

この日のミサの中で「敬老の日」を祈念して、教会を支えてくださっている先輩たちへ、後藤神父様から祝福がありました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先日は大きな地震に見舞われました。一週間が過ぎてもなお余震が続くなか、被災された方々の不安は如何ばかりかと案じます。一日も早く安心して暮らせる日が来ますようお祈りします。

今日の聖書の朗読は、第1朗読、第2朗読、そして福音、詩編では詩を唄いましたけれど、今日私たちに告げられたみ言葉を私たちはどのように受け止めているでしょうか?どんな言葉が心に響いているでしょうか?
福音書全体でもキリストのメシア性と神性を証明するために書かれたマルコの福音が、今日読まれています。福音書全体を通しても、しばしばキリストについて群衆に「この人はいったいどんな人なのか?」そのように問わせ、マルコの福音は書かれているようです。

神の教えが、その驚くべき奇跡について直接見聞きした人々は、今日のみ言葉でも「この人は誰なのか?」と考えさせます。そしてイエスは「わたしのことを何者だと言っているか?」と弟子たちにも問いかけています。そこには初代教会の信仰告白がペトロを代表するように「あなたはメシアです」と生き生きと描かれます。ペトロが告白したこの場所はフィリポ・カイサリアとみ言葉に書かれています。
このフィリポ・カイサリアという街は、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地の傍にある街であったといいます。そしてこの街は、ヘロデ王によって造られた街であるといわれます。このようにして考えると、この街はユダヤ人と異邦人のちょうど境目に当たる場所、そういう街のようです。今日の問いかけを黙想するときに、イエスを捨てるべきか、または危険を犯してまでもイエスを信じ、最後まで一緒にイエスについていくべきなのか、そういう問いかけを弟子たちにもしているような気がします。
イエスの求めているのは、一般民衆の答えとはずいぶん違った生き方、神の国がそこに描かれます。
「あなた方は、わたしのことを何者だというのか」
”あなた方”という強調した問いかけをイエスは弟子たちの前で問うています。それはきっと弟子達一人一人の心からの答えを確認しようとしているイエスではなかったのかと、そのように考えます。ペトロは弟子たちを代表して答え”メシア”という表現を使っているのですが、このメシアという言葉は、旧約聖書では度々、王や祭司や預言者に”油をそそがれる”という表現をもってメシア性をそこに表しています。ギリシャ語では”油そそがれた者”という意味を持つメシアという言葉です。ペトロは「あなたはキリストです。メシアです。」このように答えます。それは「油そそがれた者です」という意味でもあります。

イエスの時代、ユダヤの人々にはダビデの子孫から王が生まれる、メシアが生まれる、そのような期待がずっと継承されてきています。いつの日か、この苦しい困難な時代からダビデの子孫が王となって、私たちイスラエルの民を契約の民を救ってくださる、そのことを信じてイスラエルの民は自分たちの信仰を守り続けています。
しかし、そのようなイスラエルの民の期待は、イエスの期待とは少し違った形になっています。人々が期待するメシアは、ダビデの国を政治的に確立してくれるメシア、武力をもって地位を獲得し自分たちの世界を造ってくれる人、革命を起こして自分たちの世界を造ってくれる人、そういうイメージで当時の人々はメシアということを考えていたかのように描かれています。
しかし、イエスの使命は、彼らの期待とは少し違ったところにありました。イエスは神のことばを語る預言者です。そして罪を贖う祭司です。さらに新しい霊に満たされたイスラエルの神の国の王となる、そのことを使命として父なる神のもとから遣わされた方であるということ。ですから同じ”メシア”といっても、その思いや期待は随分と違っていたというように考えられます。
実際にイエスがもたらそうとする王国を本当に理解したのは、誰だったでしょうか?弟子たちはこの時、そのことを理解して”メシア”と答えたのでしょうか?
ペトロの答えを聞いたイエスは、すぐさま「誰にも言わないように」と弟子たちを戒めています。イエスのこうした戒めは、度々奇跡の後でも見られることです。この”メシア”の秘密の動機・理由は、いったい何でしょうか?
苦しみに耐え忍ぶ生活が続くイスラエルの民にとって、開放の期待はただならぬものでした。そういう中で、”メシア”の秘密について、聖書学者の一つの解釈がこのように説明しています。「ペトロのこの告白に対して、政治的な反対が起こることを避けるためではなかったか。」このような一つの解釈があります。
もちろん当時の社会、イスラエルの民の心情を考えたとき、「イエスがメシアである。自分たちの期待する王が今ようやく私たちの前に現れた」と感じる人々がイエスを前面に押し出して自分たちの国の革命を実現してくれる人だと期待するでしょう。そうするとローマに支配されているこの国は、混乱を起こしてしまうということは目に見えています。
イエスがイスラエルで捕らえられ裁判にかけられたとき、バラバという人が登場しますが、バラバはまさに革命のリーダーでもあったと言われています。ですからバラバにつながるような思いを持って、イエスを自分たちの全面に押し出して、”この国を変えてください”という騒動が起こったら大変なことになるという時代背景があった、ということを理解しておく必要があろうかと思います。

歪んだ人々の救いへの期待が、手に取るように分かるイエスでしたが、イエスもまた神の計画の時が満たされる前、弟子たちもまた誠の信仰へとひたすら歩んでいかなければならない厳しい日々が続いていきます。自分の救い、自分中心の信仰ではなく、神の愛に生かされた信仰に向かうため、私たちもまた今日のみ言葉、そしてペトロの信仰告白をよく噛みしめたいと思います。

今日の聖書の言葉をとおして、一つもう一度心に留めておきたい言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。
今日は珍しく第2朗読は「パウロの手紙」ではなくて「ヤコブの手紙」が朗読されました。その中で、
「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」このように語っています。行いによって信仰を見せるというこのみ言葉を心に深く留めておきたいと思います。私たちもこの言葉に、いろいろと考えさせられることではないでしょうか。私自身も言葉では沢山の祈りをするとしても、それが行いを伴っているだろうか、行動につながっているだろうかということを反省させられます。きっと、皆さんの中でそういう思いを抱いて味わうみ言葉ではないでしょうか。

今日は敬老の日を明日に控えて、祝福式を行いますが、長寿の恵みをいただいた皆さんには、今日の詩編のことばにもまた、とても味わい深いことばがありました。
「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。足をつまずかせないようにさせてくださる神が守ってくださっている。」
高齢になると健康に不安になってしまう私たちは、足元が及ばないことがよくありますが、今日の詩編のことば、そのこともまた私たちについて考えさせ、励ましてくださることばのようです。
神の祝福をいただき、年を重ねて、自分の足で歩ける範囲がどんどん狭くなってきたとしても、祈りの時間は多くある、そしてその祈りの世界をさらに広げることもできるようです。
私たち一人一人に手を伸べて祝福を送ってくださる神に感謝して、今日もまた心を一つにして祈りたいと思います。』