イエスの話につまずき離れていった多くの弟子たち。
そんな中でペトロの力強い信仰告白がありました。
聖体拝領の前に、私たちはいつもペトロに倣い唱えています。
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日、聞いた聖書の言葉は、皆さんの中でどのように響いていたでしょうか。
先週のお説教でも少し触れましたが、今年は本来B年なのでヨハネの福音ではなかったはずですけれど、8月の日曜日はずっとヨハネの福音が読まれます。パンの奇跡の話からご聖体に至るまでの話がテーマになっており、今日の福音まではヨハネの福音が読まれ私たちはみ言葉に耳を傾けています。来週からはまたマルコの福音に戻ります。
今日の福音は先週に続いて、カファルナウムの神殿でイエスから話を聞いた人々の反応が具体的に表されます。
福音の最初では、イエスの話を聞いて人々は言います。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」今日は私たちに語られた言葉を深く心に留めていきたいと思います。
今月はずっとパンの話が続いていました。そして、先週からはパンの話はイエスのからだと深く繋がっているという内容に変わってきていました。イエスが「わたしのパンとはわたしの肉のことであり」、さらに「血を飲む、肉を食べることによって永遠のいのちを得る」と話したことによって、それを聞いたユダヤ人やイエスの多くの弟子たちがつまづくことになりました。イエスの話を聞いてつぶやき、離れていった弟子たちと、イエスのことばを理解するためにあくまでイエスに従う弟子たちとの対比が描かれています。
イエスの弟子たちには、イエスのごく近くにいて従う12人の弟子のほかに、”大勢群衆がイエスの後を追った”とあるように、12人以外にもたくさんの弟子たちがいたようです。大勢の弟子たちの中には「つぶやくな!」と言われているのに、つぶやいたり、つまずいたりする弟子もいたということが今日明らかにされています。
イエスは、わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も生きると言われ、ご自分が「天から降ってきたパンである」と応えました。しかし弟子たちの多くの人々は、そのイエスのことばがなかなか理解できないのです。イエスはさらに「人の子がもとにいた所に上るのを見るならば・・・」ということも言っていました。
天はイエスにとって”以前いたところ”と語られています。今の私たちは、イエスが御父と一体の方である、にも関わらず、御父から子としてこの世に遣わされて救い主となった方でもある、と理解しています。ですから天は、”以前いたところ”という表現も私たちは受け止めることが出来ると思います。私たちはキリスト教の歴史についても多少学んでおり、そして聖書も度々読み学び、イエスの受難と十字架の死や復活を知り理解し、それを信じる信仰を生きています。しかし今、聖書の中で語られている人々はどうでしょうか。当時の人々はまだそのこと理解できていません。なぜなら、イエスはまだ十字架に架かっていないときの話をしているからです。「これからわたしはエルサレムに行って裁かれて十字架に架かって死ぬ」と、そのような話はし始めているけれど、当時の人々はそのような話を聞いてもピンと来ないし、「死ぬなんて、そんなことは言わないでください」と、そのような形でしか受け止めることが出来ませんでした。いま私たちが聖書を聞いて、受け止めようとしていることと、当時の人々がイエスの話を聞いて理解できることには大きな隔たりがあったということです。
イエスのことばを理解するためには、今日のみ言葉では”肉は役に立たない”と述べられています。
聖書で言われる”肉”とは、神との関わりを欠き、人間に過ぎない自分の思いに固執する人を指しているようです。私たちも少し考えてみれば、自分の”肉”の欲望に支配され、左右されてしまうことは多いかもしれません。それはある意味で神との関わりを切り離す欲になってしまうような気がします。
一方、神の霊に導かれてイエスのことばを聞くならば、それを信じることができる。イエスのことばは私たちの心の中にすんなりと理解し収まってくれる。霊であり、いのちであるイエスのことばは、神からのいのちをこの地上にもたらし、肉である人間を生かすのだといわれます。
このようにして、イエスの説得にも関わらず、多くの弟子が霊に背を向けて離れていく者がいた。一方でイエスと共に歩もうとイエスにさらに向かう弟子たちがいたのです。
霊によって生かされる世界を示す、まさにその時、ある多くの弟子たちは離れ、イエスのもとより引き返してしまう弟子たちがたくさん出てしまう。キリスト者と呼ばれる人々が多くなるにつれて教会共同体にも迫害の嵐を前にする、そういう時期になっていました。困難とは外からの迫害ではなく、今日のみ言葉でいえば、イエスのことばが理解できないという内側からの迫害・困難であったようです。神に近づくための困難には、様々な困難があります。迫害もあります。霊の働きを受けることができなければ、自分の内側から神との距離をさらに持ってしまうこともあるということが語られます。
彼らは”肉”に留まり、自分の知識に閉じこもることでイエスのことばが聞き取れなくなってしまう。私たちは時々、そういうことを感じます。人と話をしている時にもそんなことを考えてしまうことがあります。いくら教会に来て、聖書や神様の話を聞かせてくださいと言われる方でも、心を閉じたままで、ただ頭にだけ話を聞かせてくださいと、心を開かない人が時々おられるような気がします。心を素直に開かなければ、知りたいこともなかなか受け入れることが出来ないのではないでしょうか。
イエスはそのような人々を見ながら言います。「あなた方も離れていきたいか」そして 12人の弟子たちに同じ質問をします。でも弟子たちは他の弟子たちと違っていました。ペトロが代表して答えます。それはイエスの信仰へと招く問いかけに対する答えです。私はこの問いに答えたペトロの言葉が感動的に感じています。
ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」このようにペトロは信仰を告白しました。
私は弟子たちを代表してペトロが答えたと言いましたが、ペトロの答えの中に「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、このように”わたしたち”という表現を取ったことが、弟子たちを代表したのだろうと推察しました。
このペトロの告白・決意の表明は、イエスが神に由来する特別な存在であることを表明しています。信じることによって、霊に生かされた世界へとイエスと共に歩き続けるペトロの新しい出発がありました。
このペトロの信仰告白は、毎週日曜日に皆さんも同じように宣言・信仰告白しています。気付かれているでしょうか。聖体拝領の前に司祭がイエスの御からだとなったご聖体を高く上げて「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と司祭が唱えた後、皆さんが答えます「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と。
まさに今日の福音でペトロが信仰告白したその言葉を、私たちもミサの中で毎回聖体拝領の前に信仰告白として使っています。
イエスを離れた弟子と、イエスを信じ従った弟子たちの違いを、どうように私たちは見つめることができるでしょうか。”肉”の目でイエスを見るとイエスは単にガリラヤで育ち、大工ヨセフの息子であり、十字架で死んだ一人の人物としか見えてきません。しかし、”霊”の目でイエスを見る者には、イエスが真に神の子であり、どこで生まれたのか、そして十字架の死に対しても「以前いたところに上る」とイエスを見ることができるのではないでしょうか。受難のイエス、私たちは磔刑のイエスをいつも主の祭壇で仰ぎ見る、そういう信仰生活をおくっています。
霊に生かされた世界へとイエスとともに歩き続けようと決心したペトロに私たちも倣い信仰告白をして、今日もご聖体をいただこうとしています。聖体をとおして、キリストに結ばれる私たちが、互いに支え合い、ともに信仰の道を歩み続けることができるよう祈りましょう。』