2018年8月16日木曜日

8月12日(日)年間第19主日

1981年に訪日された教皇ヨハネ・パウロ二世は
「平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならない」
というメッセージを残されています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『8月も中旬に入ります。先週、8月の6日と9日は広島と長崎の原爆投下、被爆の記念日でした。終戦から73年という月日が流れています。そして近づく15日は聖母被昇天、教会の祝日になります。この8月15日は日本では終戦記念日にもあたります。その終戦記念日を間近にして今年もテレビでは戦争の悲惨さを伝えるドキュメント番組が放映されていました。少し戦争をテーマにし今日はお話をしたいと思います。

  73年という歳月が流れていますが、73年という月日が流れても戦争にかり出された友を失う。そして終戦を迎え日本に還ってきて、今は高齢者として元気に過ごしている方がたくさんおられます。長生きできた幸せよりも、自分だけが助かったという心の葛藤を抱えるその声に、今なお戦争の悲しみ苦しみに心を痛めておられる方がたくさんおられます。友や仲間の死を想い出すとともに、生きて還ってきた人たちは申し訳ない気持ちで苛ませられて、そんなお話を語る人がいます。命令が絶対であった。従うしかなかった。あの戦争は何だったのだろうか。今、元気に幸せに生きている高齢者の中で戦争を体験した人は、友の死を胸に手を合わせているんだと語っています。
   8月15日、日本ではお盆という習慣でもありますが、皆さんはどんな想いが巡ってくるでしょうか。お盆というと私も小さい時分に、母の弟が戦争で亡くなっています。ですからお盆になるといつも古ぼけた白い小さな写真が飾られて、供え物がそこにありました。私は小さい時分からその人がどんな人なのかあまり理解できないで見ていましたが、大きくなって母の弟であるということを聞かされています。もちろん私は会ったことのない叔父さんにあたりますが、二十歳を少し過ぎただけで戦争で亡くなったということで、母は毎年お盆になるとその写真を飾って供え物をあげていました。皆さんの身内の中で、親類の中で戦争で亡くなった方がおられると思います。

 NHKのBSのスペシャル番組として、「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」というタイトルで放映がありました。夜中の放送でした。私は番組の最初から気づきませんで、途中からでしたがその番組に食い入るように観ていました。インドネシアのお話でした。インドネシアでポルトガルの支配下にあったインドネシアの人たちのお話し。そして支配を続けていたポルトガル人のお話し。そこに日本の兵隊はインドネシアに入って戦争をし、インドネシアをポルトガルの支配から解放したというお話しでした。インドネシアの現地の人たちは、長いことポルトガルの支配下で苦しみを受けていましたので、日本兵が加わってポルトガルと戦って日本が勝つて自分たちが解放されたと、いっとき日本に対する感謝の念がインドネシアにはあったそうです。でも、勝ってそれほど長い時間かからないうちに日本は戦争で負け敗戦国になります。 また、インドネシアの人たちはポルトガルの支配になり恐れました。
 そういうテレビのドキュメンタリーから入って放送されていましたが、その戦地で日本兵との間に生まれ、(今は戦後73年経っていますが)70歳を過ぎた人のお話がずっとドキュメントで放送されていました。現地で日本兵との間に生まれた子供のお話です。敗戦になり日本が負け兵隊が日本に送還されていく。そんな引き揚げた父親を捜す人々が今もいるという、そんな話で番組は進んでいきました。現地で日本人のお父さんの子供として生まれた二人の娘さんがそこにおられます。どちらも70歳を超える年代に入っています。上のお姉さんは敵国日本に良くない感情を抱いています。日本兵はその女性と結ばれて子供を二人産んでいるわけですが、その女性のお母さんは日本兵の手榴弾が家の中に投げ込まれてご主人を失っています。ですから産まれた二人の娘さんにとってはお婆ちゃんにあたるのですが、お婆ちゃんのご主人は日本兵の手榴弾によって殺されている。その後、二人の娘さんのお母さんは再婚して、また子供をもうけることになります。ですからひとつの家族の中で日本人の子供ともう一組の違った血をいただいた子供が生活することになります。お婆ちゃんにとっては、自分の主人を殺した敵国日本の血をひくお孫さんの面倒をみることになりました。その二人の娘さんのうち特にお姉さんの方はお婆ちゃんから常にいじめられた。小さい時からお婆ちゃんに抱かれたことは一度もありません。そういう状況でした。ですから上の娘さんはお父さんの顔はもちろん知りませんが、日本に還ったと聞かされ、お父さんを敵としてサタンにような形として育ってきています。下の娘さんは日本が敗戦となってお父さんが日本に還ってから誕生していますので、そういう事情も見えてきません。お婆ちゃんは上の子よりも下の子の方を可愛がったと思います。ですから姉妹同士でなかなか心をうちとけて話し合える状況ではなかったと言います。でも、60、70歳を超えるようになると二人のうちの一人は、自分がどのように生まれたのか知りたくてしようがない。自分の父はどういう人だったのか。お母さんとどのよういな関係をもって自分たちが産まれたのか。そういうことがとても気になって日本の名前を調べ、日本と連絡のとれる仲介者をとおして家族と出会ったということです。
  そういうお話しが続いて、日本の家族と出会っています。それも番組で放送されていましたが、日本にはお父さんを知る親類はただ一人、90歳を超えるお父さんとは叔母にあたる人が一人だけ残っています。その二人の娘さんは、その人にお父さんのことを話します。お父さんは日本に還ってから新しい家族を持ちましたので、日本の弟も妹もいるとのことでそうした家族とも出会っています。日本にいる叔母さんという90代の人から、お父さんの性格、生き方を伺ったり、また、日本にいる弟にあたる人からお父さんについての話を聞いたりします。特に憎しみだけを持って育ったお姉さんの方は、弟にあたる人から、実はお父さんは日本に還ってから家庭を持っていますが、何度かインドネシアを訪ねています。自分たちには一度も詳しいことを話さない父でしたが、何度か訪ねているのはあなたがたを捜すために訪ねていたのだろうと、そんな話を聞かせています。憎しみだけをお父さんにイメージしていたそのお姉さんは、叔母さんなどの話を聞きながら、お父さんはサタンのような人ではなかったことを少しずつ感じます。そして、お父さんの心のうちを感じながら、少しずつ心のうちを溶かされていきます。憎しみが少しずつ癒されていきます。自分はまったく知らないでいた。お婆ちゃんからの憎しみの言葉だけを聞いて、お父さんを憎み続けた。サタンのように思い続けていた。でも、そうでもなかった。すっかり癒されたわけではありませんが、お父さんが何度も自分たちを捜してインドネシアを訪れていたことを知って、少しずつ心が解きほぐされていくようなお話しになっています。そして二人の姉妹は少しずつ自分たちの絆も打ち解けあって、しっかりと話し合う様子がテレビで放映されています。
 こんな話が今もあるということ。今も父親を捜して日本を訪れる人々がいるということ。わたしたちはどんどん戦争のそうした悲惨さを忘れてしまっていますが、こうした終戦記念日が近づく放送番組を観ながら、今なお戦争は続いている、平和は遠いものであることを実感させられています。日本に平和が戻った。日本の国は戦後、平和になったと良く言われますが、パンだけでは満たされない心の平和を求める人がまだまだたくさんいるということを思いしらされています。

 平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならないと、日本を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世はメッセージを出しています。平和は単なる願いであってはならない。具体的な行動にならなければならない。平和は実現しない。そんなお話しをされました。その教皇様のメッセージが今私たちが取り組んでいる「平和旬間」というものになっています。私たちは平和旬間を過ごしている中で、切実な平和の思い、祈りがどれだけできているかというと、私たちはまだまだ甘い生き方をしているのではないかと考えてしまいます。
 今日のみ言葉の中では、イエスとユダヤ人の論争が続いています。でも、旧約のマンナよりもはるかに勝るパンが示されています。イエス自らがパンとなり、裂かれて命のパンとなってくださる。私たちキリスト教の信仰の中心は、十字架につけられたそのキリストを信じることだと言われます。そして、今日のみ言葉の中で「つぶやき合うのはやめなさい。…信じる者は永遠の命を得ている。」と話しています。今日もまた、私たちはミサの中でその永遠の命のパンをいただこうとしています。キリストが、彼を信じその御教えを実践する人に永遠の命を与えるためにこの世に来られたと話しておられます。パンをいただくだけではなく、教えを実践する行動に移すということが付け加えられていることを忘れてはならないと思います。

 ミサをとおして生けるパンをいただけることに感謝しながら、今日もまた永遠の命のパンを私たちはいただきます。今日、ミサの中で、ミサをとおして私たちの平和とはどんな平和なのか、私たちはどんな平和を願っているのか、どんな平和を実現させようとしているのか、そのことも心にとめながら考えましょう。そして、具体的に祈りを捧げたいと思います。平和のために祈るとともに、今日もまた感謝のうちにご聖体に近づきたいと思います。』