2018年8月7日火曜日

年間第18主日

イエスは空腹を満たされた人々に対し、「永遠の命」について父なる神に心を向けるよう諭しました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は、先週のパンの奇跡に引き続くものです。「翌日」という表現が一番最初に読まれています。パンの奇跡の翌日のこと。先週、皆さんが手にとっていた「聖書と典礼」の表紙はどんな絵があったかご存知でしたか。今日の「聖書と典礼」では『パンと魚を弟子に与えるキリスト』という絵が表紙になっています。この表紙は、まさに先週も同じように使われてもおかしくない内容です。先週はパンと魚のモザイクの絵が表紙になっていました。今日もパンを中心にしたテーマで、み言葉が私たちに語られていますが、少し奥深い意味のあるパンのお話しになってきます。先週までのパンの奇跡の中での話しは、現実的なパンをイメージするかたちで語られていましたが、今日の聖書の中に出て来るパンは、「永遠の命のパンである。」という表現が入ってきます。ですから、より霊的な話しに入ってきているということが言えるかもしれません。

  ちょっと横みちに入りますが、今日の入祭唱が「聖書と典礼」の2ページに入っていますが、私たちのミサの中ではこの入祭は歌が歌われるので、この入祭唱とは違う典礼聖歌が選ばれ歌われ始めました。聖書の言葉でいうと、この入祭唱の言葉は「神よ、急いで助けに来てください。あなたはわたしの支え、わたしの救い。」。こういう言葉でミサのスタートが切られるのです。 わたしはこの入祭唱の言葉を少し心に留めております。「神よ、急いで助けに来てください。」この言葉はわたしたち聖職者=司祭や修道者が毎日唱える教会の祈り、むかしは良く「聖務日課」と言われていました。現在の教会の祈りの一番最初に唱える祈りになっています。「神よ、急いで助けに来てください。」という祈りは、神よわたしを力づけ急いで助けにきてくださいという祈りの言葉で、聖務日課は毎日唱えられています。急いで助けに来てください。何故そんなにせくのかなと考えてしまいます。急いで助けに来てください、皆さんは祈りの中でそういう祈りをしたことがあるでしょうか。神様、どうか急いで助けにきてきださい。助けてください、そんな祈りの言葉は、あまりないような気がするんです。聖務日課では、毎日毎日、一番最初の出だしの祈りの言葉が「急いで助けに来てください。」という言葉になっている。わたしは改めて、何故こんな急いでという言葉がついて、祈り始めているのだろうか、そんな事を想いめぐらしていました。
 現実に惑わされて心を騒がせているわたしたちにとって、一番大切にしなければならないこと、それは心が神から離れないようにすること、そのことではないのだろか。日常生活の中で、心が神から離れてしまって、祈りもそういうふうになってはいけないよと。何に向かうのか。神に向かう。神に深く繋がることの大切さを毎日毎日、最初のこの祈りの言葉で気付かされているのだろうか。そんなことを今回、改めて感じていました。そういう中でわたしたちの心は、どこに一番中心が置かれているのだろうか。現実の生活だろうか。目上の世界だろうか。そんなことも考えながら、今日のみ言葉を味わったり黙想したりしています。

 驚くべき五千人を超える人のためにパンの奇跡を行い、群衆のひとり一人に、欲しいだけ満足するだけ、パンを与えた先週の奇跡のお話し。残ったパン屑を集めると12の篭になったというかたちで、先週わたしたちはパンの奇跡に驚いていました。12の篭に残ったパンがあるわけですが、ある人は気になってしようがないかもしれません。残ったパンはどうなったんだろう。だれが食べているのだろう。12あるのなら弟子たちが一人ひとり貰ったのだろうか。12の篭、ひとりずついただいたのだろうか。そんなことのほうがとても関心があって、気になって、それがわたしたちかもしれません。やはり現実のこと。そんなことに心が向かうのがわたしたち。もし皆さんが残ったパンを想像して黙想して、実はこういうふうに本当はなっているんだ。もし素晴らしい思いつきがあったなら、裏話があったなら是非聞かせて欲しいなと思います。聖書には何も書かれていないので。12の篭のこと、皆さん一人ひとり考えてみてください。素晴らしい黙想で、素晴らしいお話しが出来上がるかもしれません。そんなことも考えています。

 さて、病気の人を癒すというイエスの力は、誰もがそれは人間の業ではない。人間の力では出来ないと驚きました。ここに神の業がある、神の力があるんだとイエスを見ていました。でもパンの奇跡はそれとは少し違って、少し当惑させる。今ちょっと話したように、12の篭まで残るほど、有り余るほど何で増えていったんだ。どのように増えたのか、そんなことがとっても気になります。でも、聖書の中で神の恵みが語られるとき、皆さんは気付いていたでしょうか。神様の愛はちっぽけなものではない。神様の恵みは限られたものではない。いつも溢れるほどの恵みが、神からわたしたちに贈られているということ。気付いたでしょうか。気付いているでしょうか。それに対して人間であるわたしたちが、もし恵みを人に分け与えるとしたら、どんなかたちで分け与えているでしょうか。わたしたちなら、その恵みを分かち合う時でさえも、どこかで計算して一人ひとりこれくらいで良いでしょうと、計算して恵みを分かち合っているのではないでしょうか。多すぎないように、余らないように、適当に適量に分配するのが、私たち人間のなせることではないでしょうか。でも神様の恵み、神様の愛と慈しみもそうですが、適量だけ人に与えるということではなくて、いつも溢れるほど、手からこぼれ落ちるほど、その恵みや愛をわたしたちに注いでくださっているのが神様の愛であり、神様の恵みです。ですから、そのことを考えながら、パンの奇跡を味わうとすれば有り余って当然。たとえみんなが満腹したとしても、もうすこしあっても良かったかなと言う人に、十分に分け与えるためには、溢れるほどの余るほどの恵みが神様からもたらされていたというお話しではなかったでしょうか。その神様の恵みを感じることが出来たならば、それこそ言葉に表さないほどの心の奥深くから喜びや感謝の気持ちが溢れてくるはず。まさに、わたしたちの感謝の気持ちも溢れるほどになっているはず。感謝しても感謝しきれない言葉に、そのようになってくるのではないでしょうか。
 群衆は満腹したのち、もう満たされていましたから、奇跡の前では何も尋ねることはしません。何も言いませんでした。ただただ満足していた。そして彼らはその満足していた気持ちの中で、イエスから離れたくない。イエスの傍にずっといたい。そんな気持ちの方が強くなっていたのではないかとわたしは考えます。でも、そこにいるイエスはそうした人々を見つめながら彼らの苦しみを知ります。そして憐れみをかみしめます。一人ひとりの心が満腹したときに、どんなにこれまで大変な状態であったかをイエスは見つめています。そういう背景があった先週のパンの奇跡のお話し。

 今日のみ言葉では、追いかけてくる群衆とイエスとの問答が示されています。でもここにおいても、人々の思いとイエスの目的との距離がはっきりと指摘されています。群衆は、お腹を満たされた人々は今、自分たちが信じられるようなしるしを求め続けています。お腹を満たすという現世のことばかり目を向けてしまっています。ですからイエスから離れたくない。イエスの傍にいればきっとパンは少なくても満腹出来るだけいただける。そんな思いが強かったのかもしれません。
 でもイエスはそうした人々に声をかけています。「永遠の命」について父なる神に心を向けなさい。彼らはそのときは素直にそのイエスの言葉を受けとめ、神の業を行うためにわたしたちはどうしたら良いのでしょうか。自分たちからは答えは見いだせませんでした。イエスに尋ねています。そしてイエスが答えたのは、神がお遣わしになった方を信じなさい。信じること、それがまず大切である。残念ながら彼らには、イエスが先祖の偉大な指導者モーセに重なって見えるだけでした。モーセという人は今日の第一朗読でも話されていますが、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救って旅に連れ出した指導者です。そして、旅の最中に苦しんでいたとき人々はお腹が空いた。食べるものがない。奴隷の時の方がまだましだったと不平不満を漏らしたときに、「マナ」という天からの食べ物が落ちてきた。そういう旧約聖書の中で語られた信仰の話しを伝承として、イエスの時代に生きる人々も良く心に留めていることでした。ですからイエスがなさったパンの奇跡はまさに、モーセのあのときとわたしたちが先祖から聞かされているあの奇跡と同じ事。モーセとイエスはただ重なってくるだけでした。そこでイエスは話します。それはモーセが与えたのではなく、わたしの父である神が与えたのだ。現実的にモーセにのみ心が動いている人々に対して父なる神の業が今、父なる神の心に向けさせます。それがイエスのパンであったということも話されました。命を与えるパンである。そう聞くならば、わたしたちにそれをいつでもくださいとすぐさま答えてしまいます。でもイエスは続けます。「わたしが命のパンである。私のもとに来る者はけっして飢えることがなく、わたしを信じる者はけっして渇くことがない。」現実のことに父なる神に心を向けさせ、神を信じること。神が遣わされた御子を信じること。その神の御子はひとつであるということも含めて話そうとしています。

 わたしたちはこのイエスの言葉をどう受けとめるでしょうか。今日もまたわたしたちはミサをとおしてパンをいただきます。イエスをいただきます。イエスとひとつになります。わたしを信じなさいという言葉は、わたしたちの心の奥深く留まっているでしょうか。何に執着するよりもまず心を神に向けなさいというのが、今日のみ言葉の中心テーマであるかのように感じています。聖体とパンとブドウ酒の中に神が現存する。福音の中に語られる奇跡を疑うならば、聖体に対する信仰に対しても懐疑的なものになってくるかもしれません。
 もう一度わたしたちは素直な心で神に向かいたいと思います。謙遜な心がわたしたちに求められているのではないのでしょうか。わたしたちの信仰の中心に聖体の信仰があることをもう一度認識したいと思います。そして今日もまた奉納をとおして、わたしたち一人ひとり小さなパンを奉納しますが、そのパンとブドウ酒が永遠の命を与えるイエス・キリストの秘跡となることを深く信じてイエスに近づきたいと思います。
 聖体を大切に、聖体によってさらに深く強く主と結ばれることが出来るように、今日もまた心を一つにしてミサをとおして祈りたいと思います。』