平和の元后 聖マリアを祝うこの日、日本では73回目の終戦記念日を迎えました。
戦争で犠牲になられた人々のためにも、心を合わせて祈りましょう。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『聖母被昇天の祭日を迎えています。子供たちの夏休みの最中、お盆を迎えて、両親や祖父母の実家に戻られて過ごされている方も多いかと思います。久しぶりに家族と一緒に過ごし、邂逅に浸りながら今日、教会に来られた方もおられるのではないでしょうか。お盆には墓参りの習慣もあるので、先祖の墓参りに帰省された方もおられるかもしれません。今日はいつになくお顔をよく存じない人も来られているように思います。家族と共にこの被昇天の教会に来られていると思います。
教会の歴史を見ると、5世紀から8月15日は聖母を祝ってきたと記録があります。実に1500年以上にも渡って祝ってきたということです。今日、全世界の教会は聖母の被昇天を祝っています。私たち信者にとっては、何よりも親しい存在である神の母聖マリアです。その聖マリアは私たちにとっても教会にとっても特別な存在であります。なぜ特別な存在なのか?聖母被昇天の説明が教会でなされます。
聖母マリアは世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐに御子キリストと同じ復活され、霊魂と身体も共に神の国で御子キリストの傍にキリストの勝利に与っておられる。教会はこのように聖母被昇天を説明します。それ故にマリアは特別な存在であり、私たちはその聖母マリアを祝います。ミサの今日の集会祈願の祈りに「全能永遠の神よ、あなたは御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。」とあります。この祈りの中で、私たちに聖母マリアの神秘を表し、聖母マリアは真に神の母であり、贖い主の母として認められ讃えられます。そして私たちにマリアの被昇天の姿を思い起こさせています。
聖母マリアは、平和の栄光とも讃えられる存在です。8月15日は私たちの国では特別な日であります。一般的なカレンダーには「終戦記念日」「全国戦没者記念日」と記載されています。テレビやラジオではその言葉が繰り返されています。そしてその言葉を耳にするたびに私は平和と戦争犠牲者のことを思い、そして考えさせられています。8月15日の今日、私たちは戦争でどのくらいの人たちが亡くなれたかを知っているでしょうか。改めて私自身考えさせられています。多くの人たちは今は、終戦記念日をあまり深く考えないで迎えてしまっているのかとそんな気もします。
昨日の夕刊の記事を読み、改めて平和への思い、平和と命の尊さについて考えなければならないと思いました。国のために戦うのが立派な日本人であると教育されて辛い体験を振り返る人がいます。戦後73年が過ぎ、そのようなことを思い起こす人がどんどん少なくなってきています。間違った教育を受けた私たちは、愚かだったという人もおります。
昨日の夕刊の記事に胸が熱くなる記事がありました。ご覧になった方もおられと思いますが、少しそのことに触れたいと思います。その記事のタイトルは、「ビルマの手紙」というものでした。結婚して半年が過ぎた若い二人は、子供の誕生を待つ日々をおくっていたといいます。教師であった夫は、その半年後に旧陸軍に徴収されビルマ、現在のミャンマーに向かったそうです。結婚後半年しか一緒に過ごすことができず、戦地に送られてしまった夫。夫は戦地から妻へ手紙を送り続けたそうです。実にその数300通を超えていた、という記事でした。子供が生まれ、そして妻から生まれたばかりの赤ちゃんの足形が夫のもとに届きます。その子は女の子であったそうですが、まだ見ぬ娘の朱色の足形に触れながら涙し、夫は唄を詠まれています。
「あざやけき 朱の足型は小さけれど 目にしみ吾を 泣かしまんとす」
この父親は、わが子の顔を見ることなくして現地で亡くなられたそうです。妻のもとに届いた絶筆の最後の言葉は、「元気であれ」という一言で結ばれていたそうです。
日本だけで戦争の犠牲者は、310万人を超えるといいます。この数字の中には、記録されない犠牲者もおられたのではないかと考えてしまいます。今日、その310万人の戦没者追悼式が行われようとしています。新聞の記事の中にこのような言葉もありました。当時軍の参謀部では、兵士を虫けらのように「何千人殺せば何処どこが取れる」、つまり日本の領地が獲得できると、囁かれていたことが記されていました。なんと残忍な言葉でしょうか。人の命の尊さ、平和とは無縁の現実がそこにあります。それが戦争という現実だと思います。
平和の元后、聖マリアも最愛のわが子の死を前に悲しみ苦しみがありました。
誰もが願う平和ですが、私たちの今の現実の中でも戦争や紛争が繰り返され、弱い人々がその命を失っています。
御子であるキリストが受難の道を歩み、十字架につけられて死を前にしたとき、十字架の前に立った母マリアは、母として我が子であるキリストの苦しみと心を一つにして自らを結び付けていたといわれます。十字架の上で死なんとしているキリストは、自らの言葉で「婦人よこれがあなたの子です」と、マリアは、母として弟子たちに与えられ、私たちの母ともなられたのです。
先ほど紹介した我が子を見ずして亡くなった父親、その悲しみ苦しみ、妻を思いながら、そして生まれてくる我が子の姿を想像しながら、どんなに苦しみの中で命を捧げたか。
私たちが願う平和への祈りはどんな祈りになっているでしょうか。
今日は本当に心から平和を考え、そして平和のために私たちが何をなすべきかを考える日にしたいと思います。
聖母被昇天の祭日を迎え、旅路の終わりにすべての聖人たちの交わりのうちに待っているのは、神の母であり私たちの母でもあるマリアではないでしょうか。
「幸いなものは神の言葉を聞き、それを守る人々である」という聖書の言葉があります。この世においても後の世においても、悲しいとき苦しいときにも、聖母マリアの御許に走り寄ってその取次ぎを祈りたいと思います。
聖母はいつもイエスの御前において、私たちの祈りを取成し恵みと慰めを与えてくださる方です。
聖母被昇天の祭日は、日本において73回目の終戦記念日となりました。平和旬間も今日で終わろうとしていますが、今日は改めて戦争で犠牲になった人々のためにも、心を合わせて祈りを捧げていきたいと思います。』