2018年8月19日日曜日

年間第20主日「いのちのパン」

今日もまた”キリストのからだ”をいただく私たち。
イエスの教えと死の意味を深く心に留めましょう。

この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式でした。
神学生の千葉さんも侍者として奉仕されました。


ミサの後、カテドラルホールで「聖母被昇天」の祝賀会が行われました。皆で聖歌を唄ってマリア様をお祝いしました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『聖母被昇天やお盆を迎えた一週間でした。
この一週間の間に悲惨な事件もありましたが、うれしいニュースもあり、喜びが心の中で続いています。誰もが心配していた山口県の行方不明になった2歳の男の子のことです。藤本理稀(よしき)ちゃんという男の子が無事に生きて帰って来られた。2歳になったばかりの子供が行方不明になって三日過ぎた。きっと誰もが最悪の状況を考えてしまった、そんな気がします。でもそれを口にするのははばかられました。奇跡の生存で発見されたとき、この子供のお母さんが私たちが想像していたその思いを言葉にしていました。「もしかすると亡くなっているのかもしれない」お母さんも追い詰められていたそんな状況の中で、奇跡の生還を果たしました。何よりも本当に2歳の子が三日間、山の中で真っ暗な世界で過ごしていたということを考えると、本当に私たちはどのようにして頑張って生きておられたのかなと、そんなことを考えてしまいました。
私はきっと2歳の子の心の中には私たちが気付けない心の傷があるのではないかなと考えてしまいます。一日も早く、そうした心が癒されるように祈りたいと思います。
県警や消防の人が約400名程動員され捜索していたにも関わらず、発見したのはボランティアで前日に県外の大分県から訪れた78歳の尾畠春夫さんという方でした。皆さんもテレビでその方の姿を見たことと思いますが、一刻も早く見つけてあげたいという思いで、一人で朝6時に山に向かったそうです。そして30分ほど経ってその子供発見した。400名近くの方々が、行方不明なった近くを丹念に捜索していたようですが、地元の人たちが発見できなかったにも関わらず、他の県からボランティアで来た”おじいちゃん”が山に入って30分ほどで発見したということに驚きを感じました。この方は、65歳で仕事を辞められてその後は世の中のために働きたいとボランティアに勤しむ生き方をされている人でした。昨日の道新の朝刊では、この人のことをもう一度取り上げて、こんな表現をしています。「おとこ気にあふれ、曲がったことは大嫌い、困った人を見れば助けないではいられない。映画やドラマに登場する一心太助のような人」とその心意気を称賛する記事が出ていました。皆同じ気持ちではないでしょうか。本当に感心するボランティア精神をテレビでも語られていました。
この一週間の中で、私はそのニュースを今も心に留めています。奇跡の生存と言えるのでしょうか。私たちは福音をとおしてパンの奇跡に驚いていますが、現代もきっと奇跡は起きているような気がします。

福音に入っていきます。パンを増やすイエスの奇跡から始まったみ言葉は、今日も続いています。「わたしは天から降って来た生きたパンである」という聖体についての話に変わっていきます。今日読まれた福音の初めは、先週読まれた6章51節の結論が再び繰り返されています。珍しいことかもしれません。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というイエスのみ言葉。今日の福音ではそのイエスのお話がユダヤ人の人々を驚かせたとあります。「パンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」ということに疑問を投げかけたイエスのことばです。
もし、イエス・キリストが神から遣わされた方であること、そしてイエスのその生涯を知らない人が今日の聖書の箇所を読んだらどのように受け止めるでしょうか。やはりびっくりするような内容になっている気がします。信仰を持たない人にとって、イエス・キリストを知らない人にとって、人の子の肉を食べるとか、わたしの血を飲むものとか、こうゆう表現はきっと顔をしかめるのではないでしょうか。あまりにもグロテスクな内容に聞こえてきます。でも信仰を持つもの、イエス・キリストがどんな人であり、どんな生涯をおくったかということを知っている人にとっては、そこまでの大きな疑問を持たずにそのことを受け止められるのだと思います。初めてこういう言葉を聞くとどうしても驚かれる方が多いような気がします。数えきれないくらいの宗教が現代の私たちの世界でもありますけれど、自分の肉を食べさせるという宗教はキリスト教以外にあるのでしょうか。そんなことも考えさせられます。でも考えてみると、これこそ私たちの信仰するキリスト教の特徴ではないでしょうか。でも私たちもキリストの肉を食べるということを正しく正確に理解していかなければ、キリスト教の理解を十分にしているとは言えないような気がします。私たちももっと深くこの”キリストの肉を食べる””キリストのからだであるパンを食べる”ということを深めていかなければならないような気がします。

今日読まれた聖書のことば、福音の中には、”食べる”という言葉が何度も繰り返し出てきています。皆さんは気付かれたでしょうか。”食べる”という言葉が8回繰り返し出てきています。日本語では”食べる”ですけれど、聖書の原文では少し別な描写の言葉も使われているそうです。日本語では全て”食べる”という訳になって8回になっていますが、原文では違った言葉も”食べる”と訳されています。三度目に”食べる”という言葉が使われている箇所のニュアンスは、このような意味があるそうです。イエスが十字架上で殺されますけれど、私たちがそうしたイエスと一つになるのでなければ、命はない、という意味を持った”食べる”という言葉が使われているのだそうです。イエスはどんな人か、どんな使命を持ってどんな死に方をしたか、そういうことを含めた言葉になっているそうです。
このように見ていくと、この後に出てくる”血を飲む”という表現も深い意味を持って、私たちに語られているようです。”血を飲む”という表現はいけにえと関連します。血は命であり、命は神のもの、という考えから、血を流すこと、血を飲むことは厳しく禁じられてきました。しかし私たちは旧約聖書を読むと、血の話がたくさん出てくることに気付いています。「祭壇の上で、いけにえの血を流し神に捧げ・・・」このような表現は何度も旧約聖書の中に出てきます。特にレビ記の中では「人の命をつぐなうのは血である」という表現もとられているほどです。ですから罪のつぐないとして、動物を捧げ祭壇上で焼き尽くす”いけにえ”として血を流し、罪を清めていただく。そんな表現が旧約聖書の中で語られています。
「人の子の血を飲む」とは、私たちの罪の償いとして、十字架上で殺されるイエスの命と一つになるということを意味していると言えるようです。「血を飲む」そして「肉を食べる」という二つのこれらの言葉は、イエスの十字架上で私たちのために殺されるという神秘が前提として含まれるということでもあります。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいる」ここで使われる”食べる”という意味は、よく噛んで食べる、しっかりと受け止める、このような意味合いを持っているようです。それはイエスの十字架、贖いをよく理解し、受け止めなければならないということにもなってきます。

私たちは今日もまたイエスのパンをいただくわけですけれど、祭壇上で聖変化してパンとなられるイエス自身が私たちのミサと深く関係してきます。聖体の神秘と一つになっています。私たちがミサに与るという時に、この十字架で贖われたイエスと深くつながっていくということも、私たちはもっと理解していかなければならないような気がします。
今日も聖体によって、信じる人々の上にいやしを与えてくださる聖体が私たちのもとに届けられます。この今を感謝して聖体につながれ一つとなることができるように今日もまた心を一つにして祭壇の前に一致したいと思います。』