2018年10月14日日曜日

年間第28主日

神の”掟”を守ることと同じように、隣人も大切にしなさいとイエス様は教えられます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。

カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/

教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD

列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96

今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。

今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。

第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。

私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。

今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。

永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』