2016年10月2日日曜日

年間第27主日 「守護の天使」

今日は私たちの教会の聖堂名になっている「守護の天使」の記念日です。
この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださっています。

今週の土曜日、私たちの教会は献堂100周年を迎えます。
心を一つにして、お祝いの日を迎えることができますように。

土曜日の記念ミサでは「堅信の秘跡」が行われます。
受堅される15名の方々が神父様から紹介されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『9月30日のテレビでは、旭岳の初冠雪のニュースが流れていました。旭岳の紅葉は中腹から麓にかけて見頃だそうです。私たちの日頃の生活の中で長袖を着なければ肌寒さを感じるようになりました。カレンダーはロザリオの月の10月を迎えました。まさに「冬も近し」と感じるようになりました。
今日のミサの集会祈願では、皆さんが手にしている「聖書と典礼」とは違う祈りを捧げました。今週の土曜日に私たちの教会は、聖堂が献堂されて100年を迎えようとしていますが、この教会は今日、特別な日を迎えているのです。そのことを思い出しているでしょうか。今日10月2日は、私たちの教会の聖堂名ともなっている「守護の天使」の記念日なのです。日曜日と重なり年間第27主日が優先していますが、私たちにとっては忘れてはならない記念日でもありました。そのため、集会祈願では守護の天使の祈りを捧げました。この聖堂をとおして、教会共同体、私たち一人一人を守護の天使が守り導いてくださって今日に至っているのではないでしょうか。守護の天使のことを顧みながらこれからの歩みを進めていきたいと思います。
守護の天使の記念日は、特別なことを思い起こさせてくれます。
いつくしみ深い神が天使を遣わして、私たちを神の国に招き、神を永遠に仰ぎ見る喜びに入るために常に守ってくださることを思い起こすのです。天使はそのために私たちをすべての危険から守ってくださるのです。旧約聖書では神の民を守り、導くために天使が介入する話がしばしば出てきます。詩編90の言葉にも「足がつまずかないように、神の使いは手であなたを支える」とうたわれています。
献堂100年を迎え、次の新しい時代に向かうためにも、主のことばに基づいて、天使の保護を受けて永遠に生きる喜びを与えてくださるように祈りたいと思います。
嬉しい時も悲しい時も、楽しい時も辛い時も、守護の天使はいつもそばに傍にいて、私たちを守ってくださいます。
朝起きたら守護の天使に心を向けて祈ることを大切にしていってはどうでしょうか。今日一日、罪から誘惑から災いから、そして悪から守ってくださるように祈り、眠りに入るときは、感謝とともに就寝中の守護を祈ることもできると思います。特に出かける前、乗り物に乗る前には天使に祈ることも大切なのではないでしょうか。私たちは見えない天使ですので、多くの危険から守られていることを、なかなか実感できないでいるかもしれません。でもきっと自分の過去を振り返った時、あの時はもしかしたら天使に守られていたかもしれないということを体験している人はたくさんおられるかと思います。
ロザリオの月の10月に入りました。毎週火曜日には有志の皆さんとロザリオの祈りを捧げています。そして祈りの後には、「守護の天使に向う祈り」も毎回捧げています。祈りの後半には「御身の喜びとなるよう、われを導き、われを励まし、われを強め給え。われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、清き御手もてわれを支え、われを守り給え」とあり、わたしが好きな祈りのことばはこの箇所ですが、感謝の心や慰め、そして新たな力が与えられるように感じます。時間がある方は是非、ともに祈りに参加してはどうでしょうか。
古い祈りの本の中には、天使に向う射祷もあります。
「守護の天使、わたしを守り導いてください。」
短い祈りのことばですが、朝起きたとき、寝るとき、この祈りも私たちは心に留めておきたいと思います。

今日の福音にも少し触れておきたいと思います。今日、私たちに語られたみ言葉は、前半の部分と後半の部分に分かれ、それぞれ独立しています。
マタイの福音では、「からし種一粒ほどの信仰がない」から悪霊が追い出せないという表現で語られます。今日のルカの福音では「信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスのことばとして語られます。
どんなに小さな信仰であっても、その信仰が生きた信仰であるならば、驚くべきこと、信じがたいことでさえも可能となり、驚くべきことが起こるというものです。弟子たちはイエスから派遣されたとき、病人をいやして帰るという体験もしています。
信仰に大きいとか、小さいとかがあるのでしょうか。信仰は量で量るものではないでしょう。イエスが弟子たちにいいたいこと、信仰において重要なことは、「あなたがた一人ひとりの信仰は、本当に生きた信仰なのかどうか」を言うことだと思います。
昔は生きた信仰であっても、残念ながら今は化石となってしまった信仰もあるかもしれません。また、愛に欠けてしまうならば、どんなに美しくても造花の花のような信仰であったり、骨とう品のようになってしまう信仰もあるのです。信仰は常に生きているものであるはずです。
私たちは神のみ言葉を聞いて、いま、信仰を真に生きているのかどうか黙想しなければなりません。使徒たちは「信仰を増してください」と心から願いますが、まず、小さな信仰を実践していくときにこそ、信仰が強められ、成長していくのではないでしょうか。
100年の歴史を背負ったこの聖堂で、天使に守られる私たちにも、使徒たちと心を同じにして「信仰を増してください」と祈りましょう。』