2016年11月27日日曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年を、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるためのクリスマスツリー、馬小屋の飾りつけを行いました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。



『皆さんは待降節という言葉の響きからどんな思いを抱いているでしょうか。私は求道者の時代をいれると50年経ちますので、50回目のクリスマスを迎えようとしています。私はクリスマスの洗礼でしたから、待降節、クリスマスは私にとっては、特に思い出深い待降節、クリスマスになっていますが、皆さんにとって待降節、クリスマスはどんな思いで今日を迎え、教会の歩みをしようとしているでしょうか。今日は、ノアの方舟の話しも少しふれられていますが、私たちのこの教会の設計、デザインは、ノアの方舟の舟底を逆さまにした形のデザインだと言われています。こうして見ているだけでも、そのことを改めて、ノアの方舟はこんなふうだったのかなと考えたりします。そして、方舟の中に入った人々が救われたということを考えると、今日ここに集まっている人々も、教会に足を運んで救いをいただく、その恵みをいただく人々である。そんな思いも私にはしてきます。

  待降節。いろいろな受けとめ方をして今日からの一日を始めるはずです。待降節は元々、私たちが待ち望むというよりも、神が現れて決定的な救いを与えるという意味合いが強かったそうです。でもきっと今の私たちは、私たちが待ち望む、私たちがという、人間の方が中心になって待降節を待つ気持ちの方が強いかなという気がします。元々は神様が現れ救い主を遣わして、この世に神が現れるという意味合いが、待降節に深く結ばれていたということです。 

  世の中の騒がしさに惑わされることなく、神から与えられるその時を見過ごすことのないように、「目を覚ましていなさい。」と今日の福音は私たちに呼びかけます。目覚めていなさい、目を覚ましていなさい。私たちはどんなことに目覚めていなければいけないのか。そんなことも黙想しながら考え、待降節の間、そのことを大切にして主の降誕までいきたいと思います。
  福音は救い主の訪れよりも、主の再臨の時を思わせる内容になっていると思います。いずれにせよ、新しい典礼暦の始めとなる待降節を私たちは今日から迎えています。昨日は、典礼委員を中心として多くの人々がこのクリスマスに向けての準備のために、作業をしてくださいました。馬小屋はまだ出来ていませんが、まず4本のローソクが飾られたアドベントクランツは準備されております。国によってクリスマスツリーを飾ったり、アドベントクランツの4本のローソクを飾ったり、後は馬小屋を飾ったり、その国の伝統、習慣が教会に大きな影響をもたらしたといわれます。でも、今日の教会ではツリーも4本のローソクも馬小屋も全部準備する教会が多くなったのではと思います。目で見えることからもクリスマスを意識して準備の日々を歩むことが出来るようです。今日からの4週間、主の降誕の日を目標にして、救いの喜びを受け取るために私たちは歩んでいきます。父である神は、幼子・救い主を送ってくださるのですから、その幼子を私たちは相応しく迎えることができるように準備をしたいと思います。相応しい準備とは、私たち一人ひとりにとってどんなことでしょうか。自分は幼子を迎えるに相応しい準備が出来ているのでしょうか。どういうふうにその準備をしたら良いのでしょうか。そのことを考える、そして考えながら歩むというのが待降節でもあります。ですから、一人ひとりそのことを忘れないようにして、今日からの待降節を歩むことにいたしましょう。

 皆さんはこの待降節を迎えて何か特別な思いおこしがあったでしょうか? 私は待降節を迎えて、ベネディクト16世教皇は在任期間は短かったのですが、私たち教会にメッセージを下さったことがあります。前の教皇ですが、待降節にあたって、私たちのために生まれた幼子を迎える時にあたり、「すべての命のために祈って欲しい。」そういうメッセージを流されたことがあります。幼子だけを待ち、そして幼子だけを待ち望むのではなくて、すべての命を考えましょう、というメッセージでした。そのとき全世界の教会は共に祈ったと思います。皆さんも同じ意向で祈ったのではと思います。私は今日、待降節の一日目を歩むこの時、そのことを少し思い出しました。今の私たちの少子化の時代、私たちは口にしていますが、様々な原因がそこにはあると思います。そして、全世界を見れば命がどんなに無残に消されているかという時代も、今日だと思っています。少子化だけの問題ではなくて、難民とか内戦、紛争、様々な争いの中で、また自然災害の中で貧しい人が子供を育てられない、子供に食事を与えられないそういう厳しい状況に置かれている人々も、大勢いるということが私たちのこの世界にもあると思います。幼子を待つという中で、命についても忘れてはならないということです。このときベネディクト教皇は、主イエスが人となられ完全にご自身を捧げることによって、すべての人の命の価値と尊厳を示してくださったことに感謝して、すべての人の命を守ってくださるように主に願い求めましょう、こういうメッセージがありました。私たちも与えられた命に感謝するとともに、すべての命、特に幼子の命が大切にされる社会を願いながら歩みたいと思っています。

   幼子を待つ待降節。私たちにとって幼子の存在はいつも大きな希望をもたらしてくださる
命です。今日の入堂のときに子供のほっぺたを少しつつきながら入堂しましたが、幼子、子供をみているだけで私たちの心は喜びに溢れます。純粋な気持ちにかえることが出来ます。私たちの周りに幼い子供がいるということは、私たちにとっても幸せなときであるとも思います。そういうことを大切にしたいと思います。そういう心を見失わないように、いつも私たちは持っていたいと思います。時々、お歳を召されてきますと子供の声が煩わしいという時もあるかと思います。健康上の理由でそのようなことがあるかと思いますが、私たちの周りに若い人、子供や赤ちゃんがいるというだけで、素晴らしい私たちの社会、世界であるということに喜びを見いだせる心を保ちたいと思っています。

  さて、「目を覚ましていなさい。」。いろんなことが考えられる目覚めていなさいという言葉です。私たちはみ言葉をとおしていつも目覚めていられるように、その心を大切に出来るようにこの1年を歩んでいきましょう。今年の待降節、今日から3年周期の福音朗読ではマタイの福音が朗読されることになります。今日も最初としてマタイの福音が朗読されましたが、終末と主の来臨を告げるそういう内容になりました。でも、今日の福音の中心は、いつ何が起こっても不思議ではない、そういう恐れを私たちに募らせていきます。それがいつ起こるのか、どういうことなのか、イエスから直接話しを聞いている人々も不安を感じながら その言葉に耳を傾けていました。今、私たちは福音を通しても、そのことに少し不安や戸惑いを感じながら、み言葉に耳を傾けています。イエスは彼らの期待に反して、その日その時は誰も知らない。それは思わぬ時に突然やってくると言います。パウロは今日の第2朗読で、「救いは近い。」と言う言葉を使っていますが、救いと言うよりも何か訳の分からない恐ろしいことが起こるのではないかと、パウロの言葉に耳を傾けた人が多かったようです。私たちの命の歩み、人生は いつ何が起きてもおかしくない、そういう日々を生きています。明日のことは誰も保証されていないことを時々言葉にだしますが、明日のことは心配しないで済むのでは、そういう生き方をしていると思います。
 そのとき私たちは何が起きるか分からないとう状態で人生を歩んでいるんだと思います。このお話はキリストが十字架に架けられ、受難の苦しみを受け、弟子たちの前から去っていく直前の時の話しでもあります。遺言のように語られている言葉ですが、弟子たちにはまだそのことが分からないままに聞いています。ですから、不安でしょうがなかった。聖書の話しは二人の男が畑にいても、二人の女がいっしょに臼をひいていても、一人は連れていかれ、一人は残る。そういわれます。同じ仕事、同じ場所にいたはずなのに「どうして一人だけが連れていかれるのですか。」というのが私たちの考えになってしまうと思います。死というものは同じ仕事、同じ場所にいたとしても、時には何の予告もなく訪れます。思いがけなく突然にやってくることを伝えています。それはとりもなおさず、弟子たちにそして私たちに常に警戒し用意しておく必要を諭すためのお話でした。だから、目を覚ましていなさいというメッセージになっています。
 盗人のたとえも同じことを言っています。霊的な宝を不用心のために盗まれて、大切なものを失うことがないように、目覚めて警戒しているようにと諭します。私たちが本当に大切なものをしっかり心の中に保っていることが何よりも大事なんだということを言います。私たちは一番大切なものを本当に心の中でしっかりと保っているでしょうか。大切なものよりも違う方向に目を向けて、そっちに気遣いだけをしている、そういうことも多い私たちです。でも、イエスの目から大切なものをいつも大切にしなさい、見失うことのないようにしなさいと、私たちに諭します。
 現代の時代を不信仰の時代と神不在の時代と呼ぶ人がいます。ストレスが爆発して誰でもいいから殺傷するという事件も、一年に何度も何度も新聞やテレビで聞いています。まさにその時、同じ場所にいても、親しい家族が亡くなり自分だけが助かるという状況を経験する時代です。自分だけは大丈夫とは云えない時代になっていると思います。ましてや幼い命、子供の命がそういう中で踏みにじられ消えていく、そういう時代を私たちは生きています。でも、そういう時代を変えていかなければならないのも私たちの努めだと思います。

 主の降誕を待つ準備をしながら、生まれてくる子ども達がいつものびのびと成長する社会を描いて、人権が尊ばれ社会の一員として健康に恵まれるように、私たちは祈り続けなければならないし、そのためにも私たちの行動が大切になっています。その心を見失うことなく、いつも目覚めていられるように、今日はこのミサの中で特に祈りたいと思います。私たち自身も世の騒がしさに惑わされることなく、信仰と神への信頼のうちに主の訪れと喜びを受け入れることが出来ますように。待降節を歩む私たちが、私たち一人ひとりに相応しい道のりを自分の足で、自分のペースで幸せに歩くことが出来る、これこそ私たちが願っていることだと思います。その足もとを主の光がいつまでも照らしてくださるように。待降節、いろいろな意味で私たちは相応しい準備をしていかなければなりません。私にとっての相応しい準備、私たちの教会にとっての相応しい準備を考えながら、共に歩んで行きましょう。』