2016年5月8日日曜日

主の昇天

「主の昇天」の祭日を迎えました。復活して弟子たちに姿を現したイエスが、天に昇る日となりました。

ミサの後、教会総会が行われました。




後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は主の昇天の祝日を迎えます。
 使徒言行録では、復活の後40日目に昇天があったと記されています。ルカの今日の福音では弟子たちを祝福した後で、復活の主イエスは空で天で昇っていきます。そのイエスの最後の姿を見つめる弟子たち。イエスとの別れの寂しさよりも、この時はイエスが神の世界に移っていかれるというその情景を見つめながら、心に留めながら、弟子たちは平和に満たされています。その光景を見ながら弟子たちは礼拝したと聖書は記しています。きっと心は喜びに満ち溢れ、イエスの教えに基づきエルサレムに心は向かっていたのだと思います。
 でも今しばし、聖霊が降るまで留まっていなければならなかった。主の昇天の出来事は大きな転換を与えるもの、そういう出来事であったようです。キリストの地上での役割が終わりをつげて、同時に使徒たち弟子たちを中心とした、新しい教会の誕生をも告げるかのような出来事になりました。
  主の昇天、私たち人間が簡単に「はい。」と言うことの出来ない神の世界への誘いであるようです。人間の目には隠されている神の臨在する、その天の世界にイエスが招いていた。もし自分が天に上げられるイエスの姿を見ることができたらとしたら、どんな気持ちになるのかなと想像します。喜びで満ち溢れてその姿を見送るでしょうか。ただ驚き恐れる方が先になって、落ち着かない状況で見つめてしまうのではないか、そのような気もします。心の平和に満たされる、そういう落ち着き、信頼を持って主とともに自分の信仰を成長させたいとただ願います。
  私たちの今の世界、それは桜の開花を待っている、心の平和、現実に重なってくるような気もします。空を見つめるその心はイエスの昇天から与えられた平和。日本人の心は桜を見つめながら歩く、なぜかしら平和を感じる国民性も持っているかのようです。札幌の桜は今、どうでしょうか。ところ変われば今なお、 地震に対する不安な生活をおくる人々がいるなかで、北海道の人たちは桜の咲く季節を迎え、淡い桜色の花びらがもたらす平和を味わっている、そういう私たちがいます。時折冷たい風、雨の日もありますが 太陽の光は初夏を運んできているような気もします。桜に包まれる世界は私たちにとってもひとときではありますが、平和をもたらす季節のような気がしています。
  弟子たちは自分たちのもとを離れて昇天するイエスを見つめました。そして伏し拝んでいます。苦しみを全うされ、三日目に死者の中から復活したイエスは、今や礼拝を受ける身となって天に昇られ、父のもとから今度は約束した聖霊を送ると言い残されました。そういう主の昇天を私たちは黙想しながら、平和な心を持って新しい一歩を踏み出すことが出来るように、そのミサの中でも祈っていきたいと思います。

 部屋の書類を整理していると1枚の絵はがきに出会いました。その絵はがきは東京の大先輩の神父さんが描かれたものです。表には絵と詩も添えられています。小さな文字で創作された神父さんの名前もありました。良く知っている神父さんですが、絵を描いたり詩を創ったりする神父さんとは全く想像もしていませんでした。その詩を少し紹介したいと思います。
 「  今日 一日中  ぶつぶつ言っていました
   茨の棘のように 人を突き刺していました
   気持ちを あなたに向けるのは  大変です
   ぶつぶつばかりが 心の中を占領し
     あなたの居場所は ないのです
   明日 空を見上げます
   そして 大きく 伸びをします  」
短い詩ですがそこに「空を見上げる」という言葉がありました。この昇天の日を迎えて、この一言に心惹かれてこの詩を味わってみました。空を見上げます。自分が日頃抱えている心を見ながら、もう一度空を見つめていたい。そういう神父さんの信条が詠われている詩でした。一日、不平不満を言っている自分に気づきながら空を見上げてみよう。正直に自分の心を表現している詩(うた)だと思いました。そして、自分にも神父さんが詠まれたその世界、いろんな形で気づかされ考えさせてくれました。
  この一週間、祝祭日が続いていましたが、自分はこの一週間どのように過ごしていたのだろうか。不平不満を口にしない日は何日あったろうか。そんなことも考えてしまいます。休暇が続いたこの一週間の間に何度人に喜ばれることをしたのだろうか。心から神様に自分の心を向けた日は、時間はあっただろうか。私の心の中に神様の居場所があって、それを大切にしただろうか。心を落ちつけて空を見上げる余裕は自分にあったのだろうか。心から神に祈るひとときは自分は持てたのだろうか。祈りをしているつもりで、心を神に向けるのではなくて、自分が出合った様々な人に心を向けて、時には不平不満を思い浮かべていたり、そういう時間の方が長かったのではないだろうか。そんなことを考えてしまいました。どんな祈りをしたのか。誰のために何のために自分は祈ったのだろか。神のいつくしみの特別聖年を歩む中で、ゆっくり落ち着いて心を見つめると、自分の信仰の課題、祈りの課題もまた気づかされるような気がしました。皆さんはこの一週間、どのような日々を過ごしてこられたでしょうか。そんな黙想をしながら、今日の主の昇天の祝日を迎えました。

  イエスは別れを前に改めて弟子たちにメシアの苦しみ、死から三日目に復活すること、そして、罪の赦しについても話しをし、その後に宣教が世界に広がっていくことを話されました。やがて聖霊があなたがたを包みこむから、それまでは都エルサレムに留まるように。その後、弟子たちは新しい使命を受けることになりました。あなたがたはこれらのことの証人となる。イエスは手を上げて弟子たちを祝福し天に昇られた。そのキリストの心に触れた弟子たち、十字架の死と復活を体験した弟子たちは、キリストの証人(あかしびと)となる使命を十分に自覚して教会を築いていきます。そして、自分たちの役割をしっかりと受けとめて、新しい出発をしていきます。主の昇天は弟子たちにとっても、大きな転換を与える出来事でした。その弟子たちの役割が、私たち一人ひとりにも与えられていることを、今日改めて心に留めたいと思います。弟子たちとともにおられる主は今、私たちのうちにもおられます。わたしたちとともに留まってくださる主でもあります。私たちの信仰はその主であるイエスを証しする信仰でなければならないはず。私たちはそのイエスを信じ、ミサに与り聖体をいただいています。自分の目で見たり耳でその声を確かめられるものではありませんが、キリストは私たちの信仰の目でとらえられる、現存する存在でもあります。

 今日の主の昇天の祝日から始まって日曜日は大きな祭日、祝日が続いていきます。来週は聖霊降臨の主日を迎えて復活節の典礼が終わりを告げます。主の昇天を黙想しながら、聖霊の恵みを願い、新しい一週間の日々を過ごしていきたいと思います。
  私たちには祈らなければならないことがたくさんあります。新聞の紙面を見ていても苦しむ人の事件がたくさん出てきます。日本だけではなく、海外においても同じ状況がたくさん見えてきます。私たちの祈りを本当に心から捧げて、主の平和が私たち一人ひとりの心に満ち溢れる、そして一人ひとりの心にその平和が届けられるように、今日もまた主の祭壇を囲んで祈りを捧げたいと思います。』