2021年1月24日日曜日

年間第3主日

 松村神父様からいただきました「福音のメッセージ」をご紹介します。



2021年1月24日 年間第三主日の福音のメッセージ 

松村繁彦神父

 今日は福音に書かれている「時は満ちた」「私についてきなさい」「2人はすぐに網を捨てて」という三つのポイントから、私たちに語られているメッセージを分かち合いたい。

1) 時は満ちたとは何だろう

イエスがこの世にお生まれになり、福音宣教を始める前に荒れ野で準備をし、イエスの使命を認識して福音宣教を始めた。神が人類をイエスに託したことをもって神の直接介入は以降教会に委ねられる。イエスにとっての最後の関わりという意味で私たちに緊張感を持たせているのだろう。神の国の到来を意味するこの言葉は、既に来ている“神の国”、まだ完成していない“神の国”という矛盾のように聞こえるこの両者の間で、気を引き締める言葉として私たちに投げかけられたのではないだろうか。であるから回心してまずイエスの福音の言葉に心をわしづかみされるよう導かれているのだろう。

2) 私についてきなさいとは

この言葉には力強い神の信頼を感じる。命令として私たちにその使命をゆだね、神の使命を私たちに委ね、その使命を全人類に広めてほしいという強い願いでしょう。もちろん私たちはそれほどの能力はない。しかし、それでも共に生活し、福音を聞き、歩むことを通して至らない私たちに少しでも成長し、罪やミスを犯す私達でも付き従うことが許され、共にイエスの生涯から学び取るよう身近に置いてくださった。イエスは信頼を私たちに持ってくださっていることを喜びとしたい。

3) 2人はすぐに網を捨ててとは

ここでは“すぐ”という言葉が強調されている。旧約聖書での召命物語では声をかけられた後には多少のゆとりがある。(列王記19:19~)エリヤはエリシャに親族への挨拶を許しているが、イエスはいとまごいに行かせることを許していない。(マタイ8:21~では)私たちはつい油断やゆとり、自分の都合や事情を言い訳に自分を正当化してしまうが、神のみ旨を行う者はまさに“今”の行いが問われているのだろう。目の前に倒れている人を前に、ちょっと用事があるので終わらせてから!と言えるだろうか・・・・ということである。後回しにしてしまう性質を見抜いて厳しさが要求される。なぜならば愛は常に今、目の前で行われるべきだからであろう。イエスが十字架にかかったことも、神ならばもっと後回しにもできたはずだが、あえてそのタイミングを受け入れることが求められた。“時が満ち”というその時のしるしは常に救いのため、弱い者・救いを求めている者への徹底した態度だからと感じる。そこを中心に置かれるイエスの姿勢は、人類に強い言葉をもって示し、要求されたのだろう。

信仰生活、特に日々の私たちの生き方にスパイスを与えてくれた今日の福音。至らない私でいいんだ!そんなあなたを選んだ!というイエスの覚悟。しかしその先には救いを待ち望んでいる人々がいるというイエスの暖かなまなざし。そこに私たちも“今”共感し、共に痛み寄り添うための心構えが“今”伝えられたのではないだろうか。