2022年10月8日土曜日

10月9日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第28主日 C年 2022年10月9日 松村神父

水平社宣言100年にあたり、現在シンポジウムが数度行われ改めて忘れてはならない事が思い起こさせられています。さて、この水平社宣言とは北海道の人にはなじみがないと思います。なぜならばその宣言は部落差別に対して、強い思いのなか部落の人々がその人権を主張し、社会を変えようとした宣言であるからです。蝦夷全体がそもそも部落のようだという人もいるほど、私たちはすでにその中で生きていますし、江戸以降の歴史が薄い北海道にとって認識が薄いのは致し方ありません。せいぜい松前藩によるアイヌ民族迫害やオホーツク沿岸に居住されていた北方少数民族ぐらいしか脳裏をよぎらないことでしょう。しかし誰しも差別を身近なものとして、そこに向かって思いめぐらすことなく世界の家族の共存の道はありません。

今日の聖書では重い皮膚病の人を中心に描かれています。「ハンセン病」と呼ばれ、かつて日本では「ライ病」と呼ばれていた人。「ライ」は差別用語にもなり、家族親族まで忌み嫌われていきました。

少し話は変わりますが、先週、私の恩師である元東京カトリック神学院の院長を務めた東京教区の寺西英夫神父様が亡くなりました。寺西神父からは神学生時代に随分と心の助けをいただきました。その中でも神山復生病院に一緒に行った時の事を思い出します。

まだ入学して間もない私にとって、初めて見たハンセン病の一人の患者さんは驚く姿をされていました。目は白濁、鼻は崩れ落ち、手足の指は無く、口も裂けていました。寝たきりのその患者さんは80代。その方のもとに寺西神父と共に二人で会いに行ったのですが、寺西神父は当たり前のように枕元に近寄り、ティッシュをつまんで零れ落ちるよだれをふきながら優しく声をかけられました。もちろん今の時代は感染することはありませんが、衝撃が走り近寄ることに恐れが生じました。しかし寺西神父の姿によって、気が付いたら足をさすりながら自己紹介を始めていました。その間僅か10秒ほどでしょうか。

この寺西神父の姿を見て患者さんに磁石のように引き寄せられた体験は、患者さんへの自己の感情や意識した壁を越えられたといった問題ではなく、神父さんの姿の中から勇気や力が湧いたことを思い出させられました。

理屈で整理することが得意な私にとって、引き寄せられた体験は初めてだったかもしれません。この差別を受けている人たちへの関わりとは、自分の能力や態度ではなく、私たちに与えられた神の態度とその恵みに突き動かされる衝動なのでしょう。神学生になって間もない頃のこの体験は、貴重なものでした。

今日の福音では異邦人のみが感謝のためにイエスのもとに戻ります。この出来事は信仰生活が長いから、年長者だから、信仰に熱心だからという“言い訳や主張”を否定し、神から受けた恵みを“受け止められるセンス”を求めていることが語られています。

たった10秒の中に起きた自分の中での出来事を、その後何度も何度も反芻し考えていく中で、センスの無い私でも寺西神父を通して自分の中に起きた神体験は今も忘れることはありませんし、忘れてはならないと感じています。そしてそのことに限らず、同時に差別を受ける人々がまだ大勢居り、私にさらに心の開放を求めている主がおられることも忘れてはならないことが語られていると感じました。


【聖書朗読箇所】


いつくしみあふれる神よ、

  あなたはすべての人をいやし、豊かないのちを与えてくださいます。

  ここに集うわたしたちが感謝の心を一つにして、賛美の祈りをささげることができますように。

集会祈願より


第1朗読 列王記 (列王記下 5章14-17)

  (その日、シリアの)ナアマンは神の人(エリシャ)の言葉どおりに下って行って、ヨルダン(川)に七度身を浸した。 彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。 今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。 わたしは受け取らない」と辞退した。 ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 ナアマンは言った。 「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。 僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物や その他のいけにえをささげることはしません。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 2章8-13節)

 (愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、 ついに犯罪人のように鎖につながれています。 しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、 あらゆることを耐え忍んでいます。 彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

  キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、

  キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を否むことができないからである。」


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17章11-19節)

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」