2022年7月31日日曜日

7月31日 年間第18主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第18主日 C年 2022年7月31日

“神の前に豊かにならない者は”  ウルバン神父

“有り余るほど物を持っても、人の命は財産によってどうする事もできない”と主の言葉は本当です。自分の人生を振り向いてみると、小さい時から豊かな生活を知りませんでした。それでも私たち子供達は、毎日明るく生きていました。自分の貧しさをあまり感じませんでした。親を囲んで愛されて生きることで十分でした。

10才の時のある夜でした。戦争の時でした。母親は、激しいサイレンで目が覚めて飛び上がった。飛行機が来るんだ、「起きて、早く起きて」と叫びながら、私達を起こそうとしたが、私たちは動かなかった。叩きながら、蹴とばしながら、やっと私達3人を4階から地下へ動かした。そこに着いた途端に空爆が始まった。突然、ものすごい爆発があって、家の土台まで響いて、私たちの上に色々と崩れ落ちたが、誰がどこにいるか、知らなかった。暗闇の中で叫び声があった。朝になって、ガレキの中から出ると、私たちは互いを見つめあった。ボロボロの姿でしたが、生きていた。隣の家では、そうではなかった。みな死んでいた。私達はすべてを失って、もう何もなかったが、それでも嬉しかった。傷なしで生きていた。ガレキの中に立った時、泥どろの中、私の小さい金魚を見つけた。必死にごみの中で生きようとしたが、助ける事ができなかった。その日、一番悲しんだのは、この金魚の事でした。その日、私たちは家のない貧しい旅人となった。何百km離れた田舎にある本家の人に受け入れてもらった。私はまだ子供でしたが、「物はどうでもいい、生きるだけでもありがたい」と体験した。 

二年後の復活祭ごろ、戦争が終わりました。夏になると、刈入れが終わった後、私たち子供は毎日畑へ行って、聖書に書いてあるモアブ人のルツのように、落ちた麦の穂を拾って、種を集めていた。秋ごろ、町へ帰る事が出来た。父はもう戦争から無事に帰って来て、小さいちょっとボロ住まいを準備した。その時のクリスマスの夜を忘れる事が出来ません。プレセントはありませんでしたが、ローソク一本を囲んで、歌ったり、祈ったり、沈黙のうちに見つめあったりして、手を繋いで共にいるのは幸せでした。私達が畑で集めた種で母親が作ったクッキーをかじりながら。

家族の中の親しみは、神様からの最高の恵みです。どうしてこの宝を、遺産と色々な貪欲によって壊せるでしょうか。それは残念ながら、よくあるのです。けれども、私達はまず神の国と家の平和を探しましょう、後の物は与えられる。どうにかなる。

ある日、車で達布村の山から留萌へ帰った時、共にいた方は私に、雑草の中の古いわら小屋を見せた。「見なさい。子供の時あのわら小屋に住んだ時に、私はすごく幸せでした」。神様の言葉です。「いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、すべての事について感謝しなさい」。富があっても、貧しさがあっても、感謝しよう。あなたの心に喜びが湧き出る。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、

  わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、

  さわやかな憩いを与えてくださるのはあなたです。

  真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、

  キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節,2章21-23節


 コヘレトは言う。

 なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。

 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、 まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。 これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、 労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。 夜も心は休まらない。 これまた、実に空しいことだ。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1-5,9-11節


(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、 キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、 あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、 および貪欲を捨て去りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかならない。 互いにうそをついてはなりません。 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、 日々新たにされて、真の知識に達するのです。 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。



福音朗読 ルカによる福音 12章13-21節


(そのとき、)群衆の一人が言った。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、 『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』 と思い巡らしたが、やがて言った。 『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、 そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。 ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」