2018年1月14日日曜日

年間第2主日

年間の典礼季節がはじまりました。今日の典礼のテーマは、神の呼びかけの神秘です。

第1朗読(サムエル記)では、主が少年サムエルに呼びかけられました。
そして、ヨハネによる福音では、イエスが最初の弟子となるアンデレとヨハネに「何を求めているのか」と尋ねられました。これは、ヨハネが福音書に記しているイエスの最初の言葉であり、彼らへの招きでした。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の典礼季節に入っています。
 今日、私たちが聴いたヨハネの福音、B年の福音と違い、今日だけヨハネの福音になっています。毎年、年間第2主日の福音朗読は、ヨハネの福音が読まれます。来週からはマルコによる福音に戻ります。ヨハネの福音が読まれるためには、きっと何かそこに深い意味があるのだと考えます。共観福音書と違って、ヨハネの福音の序文は特別な内容で始まります。ヨハネの福音は創世記と同じように「はじめに言葉があった。」という書き出しで福音が書かれます。「はじめに言葉があった。」永遠の言葉の存在から書き記されるヨハネの福音の序文。そこから展開するヨハネの福音の物語。それは、イエスが神の子キリストであるという、真の信仰に導いていくものでもあります。
  「はじめに言葉があった。」という序文に続いて、1章の途中から特別な一週間の出来事が書かれています。その内容は、洗礼者ヨハネが登場したり、最初の弟子たちの召し出し、最初の奇跡であるカナの婚礼の出来事まで、最初の一週間の出来事だと言われています。そして、2章に入るとイエスの公生活に入っていきます。ヨハネの福音だけがガリラヤではなく、過越祭が近づく中での、神殿から商人を追い出す出来事、それはエルサレムで起こったという出来事で、ガリラヤではなくエルサレムでの公生活の出来事として語られています。そういう意味で共観福音書と違って、独特の書き出し内容で、福音でヨハネの福音は書かれているものです。

   今日のみ言葉は、その一週間の出来事の中の、三日目の出来事であるといわれています。イエスによって弟子たちを召し出している。その弟子たちとの最初の出会いを伝える場面が今日のみ言葉です。召し出しの内容に入っています。どんな状況で弟子たちとの出会いがあったのでしょうか。ヨハネは後にイエスに洗礼を授ける「洗者ヨハネ」と呼ばれる人ですが、弟子を持っている立派な人でした。熱心な信仰の人でした。
 この時、ヨハネの傍には二人の弟子がいたと書かれています。先生であるヨハネは旧約聖書のみ言葉を使って人々に悔い改めを述べる人でもありましたが、ヨハネ自身は自分の使命を自覚して、そのことに忠実に生きている信仰の人でもありました。いつの日か、救い主は自分たちの前に訪れる、現れる、そのことを信じて弟子たちを指導しています。弟子たちにとって尊敬する偉大な先生であるヨハネが、イエスを見つけて、指を示して「見よ、神の小羊だ。」と証言しています。尊敬する先生が 目の前でイエスを指さして言われたのですから、弟子たちは素直に日頃から教えを聞いているように、その救い主、神の小羊と言われた人に付いていく。私はこのように召し出しの場面を見つめています。

  この神の小羊という宣言、私たちもミサの中で何度も何度も繰り返す言葉です。私たちは神の小羊とどんな関わりがあるのでしょうか。私たちの信仰は神の小羊にどう繋がっているのでしょうか。あまり意識しないでその信仰を見ているかもしれません。深い繋がり、関わりを持っているのが私たちの信仰であるということです。聖書と典礼でも説明されているとおりですが、旧約時代から人々の救いのために、神殿で神に捧げられる犠牲の供え物、すなわちそれは生け贄の小羊を指し示しているものです。よくよく考えていくとそれはまた、私たちの購いのために十字架に架かるイエス自身を差し示しているということが私たちの信仰であるはずです。私たちの救いのために、私たちの購いのためのに、私たちを永遠の御国に導くために、この神の小羊は生涯をとおして御父を私たちに示して、十字架の道にまっすぐに進まれる方でした。この神の小羊をとおして、私たちは贖われ、罪の赦しを得、新しい命に生きる者としてくださいます。
 以前にも話したことがあります。私たちの祭壇の真上には、その神の小羊のレリーフが描かれています。もう皆さんは気づかれていることですが、今は煤で真っ黒になって、神の小羊か判断が付きにくくなっているのですが、こちらの傍に来て見上げると小羊であることが分かります。まだ、良く見ていない方は是非、ミサの後で前に来られ確認して欲しいと思います。いつも祭壇の真上に神の小羊のレリーフが私たちの教会にはあったんだ。ミサの中の祈りもこの神の小羊に繋がっているんだということを考えると、私たちはもっとミサの中の祈りも、キリストに繋がる羊に繋がる信仰の祈りもまた意識も変わってくるかもしれません。

  ヨハネはイエスを指し示して、神の小羊と呼んで、イエスは自分に従おうとして付いてきたヨハネの二人の弟子に振り向いて話されています。私はこの「振り向いて」と言う言葉に特別な感情を抱いて味わっています。敢えてイエスが自分に従って来た人に「振り向いて」というのはもっと深い意味があるのではと創造しています。自分の意志で振り向いて、確認してそして声を掛けてきた。あなた方は何を求めているのか。イエスはそうに二人の弟子に声を掛けています。ヨハネ福音書では、イエスが発した最初の言葉です。「あなた方は何を求めているのか。」そのことも深い意味を表しているのではと考えられます。誰を探しているのかではありません。何を求めているのか。

 多くの人は人生に何かを求めています。その多くは自分たちの欲望を満たしてくれる物質的なものかもしれません。でも、ヨハネの弟子たち、彼らが、求めているのは決して物質的なものではありませんでした。彼らは真実を求めています。救いを求めています。私たち人間の本当の真実、平和を求めています。彼らは先生と呼ばれる人の話を聞き、それを悟ろうとしていました。彼らの周りにはラビと呼ばれるたくさんの宗教的指導者がいましたが、まだ自分たちの問い掛けに、十分に答えてくれる先生はいませんでした。自分の先生が指し示した神の小羊の救い主イエスに対して、彼らはラビと呼びかけ、何処に泊まるのですか?と聞いています。イエスが泊まっているところ、自分たちに真実を伝えてくれるかもしれない。その先生が泊まるところに自分たちは赴いて、その先生から話しを聞きたい。真実を聞きたい。本当の平和を聞き出したい。イエスと膝を交え語り合い、親しく教えを受けたいと彼らは願っていたのではないでしょうか。この一連のやりとりに私は興味を持っていますが、流れに戸惑いも感じます。イエスと弟子たちとの会話。何を求めているかとの問いに、直接答えることなく、何処に泊まっているのか、という質問に変わっています。イエスは何処に泊まっているのか、具体的に答えることなく「来なさい。そうすれば分かる。」という答え方で導いていきます。もう少し具体的に会話が交わされていたのではないかと思いますが、聖書の言葉はポンポンと飛んで、具体的に示されていないような気がします。でも、そこに象徴的な深い意味が入っているのではと、黙想するとそうしたことに、その世界に入っていけるような気がします。

  彼らはイエスの泊まるところを見たとはありますが、イエスが泊まるところは本来ならば、父なる神との交わりによる天上の住まいであるはずです。イエスが答えた「来なさい。そうすれば分かる。」というその場所は、単なるこの地上の宿泊場所ではなく、イエスといっしょに過ごすことによって天の住まいが分かるようになること。また、父なる神の御心を悟るようになること。そしてやがて、弟子としてその心理を理解し、実践することが可能になるところ。そこがイエスの泊まるところであり、泊まるところの意味はきっと、留まるところであり、存在するところであり、生きるところであったとも思われます。何処に泊まっているのですか。私たちもそういう質問をしていかなけばならないと思います。信仰の目でみることができないなら、イエスの十字架の死は悲惨な死であり、否定的にしか受け取ってしまうことになります。信仰を十分に理解していなし一般の人は、イエスが十字架で亡くなった。そういうことに残酷さだけを感じます。でも、イエスの十字架の死は信仰の目で見れば、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれた死でもあるのです。
 ヨハネの福音はそのことに私たちを導こうとして聖書を書いていきます。見よ、神の小羊と指し示したヨハネの言葉。叫びは弟子たちだけでなくて、私たち一人ひとりにも神秘的な意味を持つ神秘的な言葉です。そしてそれは私たちの召命、召し出しにも繋がっています。信仰による召し出し。

 今日の第一朗読でも、サムエルの召し出しの話しが語られました。サムエルは神からの呼びかけを感じて、先生でもあるエリのところにいきました。エリは自分は呼んではいないよと答えます。今日の福音のみ言葉の中にも二人の弟子の召し出しが描かれていますが、そこには先生であるヨハネがイエスとの間に立っています。ヨハネは弟子たちをイエスのもとに行かせます。導きます。そうして考えてくると、召し出しというのは、必ずしも直接、神と自分との関係ではなく、人間、人が介入していることがあるということを指し示しています。皆さんが信仰に導かれたこと、そのことを考えるともしかすると、人をとおして教会に、信仰に導かれる人も大勢おられるのではないでしょうか。
  私たちの一人ひとりの召し出しも考えながら、一人ひとりが召し出しに答えるために人に
深い関わりを持っていることも大切にしなければと思います。私たち一人ひとりが友人、そうした人々を神のもとに導くきっかけを作っているということを忘れてはならないと思います。召命、召し出しは私と神との関係だけではなくて、私とほかの人々との関わりも召し出しに繋がっていくとうことを大切にしたいと思います。

 召し出しの大切な要素を三つあげると言われます。
 ひとつは好奇心にも似た問い掛けが大切な要素になるということ。イエスは何を求めているのかと問われましたが、そうした関心を持つことによって、召し出しに繋がっていきます。私たちの周りにいる隣人が何かそういう思いを持っているならば、それはひとつの大きなきっかけになるかもしれません。第二の段階は、キリストに従うことと言えるでしょう。弟子たちがヨハネの指示に従ってイエスに付き従ったように、キリストに従うこと、イエスに従うこと。従うことは大きな要素になります。さらに第三段階としては、主とともに生きること、ということができます。キリストを探し求め永遠の住みかにいたるまでキリストを探し求めるならば、キリストに従い生きることは大切になる。それが召し出しをさらに深めるということ。

 年間の季節に入りました。四旬節の始まる「灰の水曜日」まで第一段階の年間の季節になります。み言葉は日曜日に告げられる聖書の言葉は、イエスの生涯における様々な出来事を私たちに告げ知らされることになります。私たちはそのみ言葉に出会いながら、信仰を成長させなければと思います。主イエスとの出会い、そしてその言葉に従い、歩み続けることが出来るように、今日もまた、皆さんと心をひとつにして、主の祭壇の前に一致して祈りたいと思います。