2018年1月28日日曜日

年間第4主日

今日の福音では、ガリラヤ湖畔の街カファルナウムでのイエスの最初の活動の様子が語られました。

今月の31日は後藤神父様の霊名 聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日です。
ミサの後、日頃の感謝を込めて霊名のお祝いが侍者の子ども達から手渡されました。


神父様から一言ご挨拶をいただきました。

この日の後藤神父様のお説教は、ただ今準備中です。



『おはようございます。厳しい寒さが続く札幌です。
 今日の聖書のお話し。皆さんはどのようにそのみ言葉を受けとめ、どのようなイメージが広がっているのでしょうか。今日の聖書の背景にはガリラヤ湖があります。ヘルモン山の雪融け水が、ヨルダン川を経てガリラヤ湖に注いでいます。私たちはガリラヤ湖を何となく地図の上で想像するのですが、一番北側にはカファルナムという町があったそうです。そのカファルナムの街道にイエス・キリストは今立っています。現在もその遺跡が保存されているそうです。かつて、当時のカファルナムの街には二千人の人が住んでいたという記録が残っているそうです、そして、その町にはペトロの家があり、イエスが宣教したシナゴーグ(会堂)の跡があるそうです。また、パンと魚の奇跡の教会が建てられて現在に至っています。会堂のある湖畔から湖を見渡す、花が咲き乱れる小道をガリラヤ湖から向かってくると小高い丘になります。その道を登っていくとイエスが山上の垂訓を語って弟子たちを祝福した、現在は美しい八角形の教会があります。山上の垂訓教会が見られるそうです。そういう背景がある中で、このみ言葉が語られていると私自身想像して、黙想しています。

 2千年前、いよいよイエスの公生活が始まり、12人の弟子たちを選んだイエスは福音宣教の旅を始めます。会堂に入ってイエスは、新天地が開かれるときが来たと、神について会衆に語ります。どんなことが話されたのか、今日のみ言葉では触れられていませんが、神についてイエスは語っている。律法学者のようではないという表現が聖書にありますから、口先だけで神の教えを述べている律法学者ではなく、権威ある教えをイエスは会堂で会衆に向かって話していたようです。
 イエスは神について語るだけではなく、病気の人の癒しも行っていたというのが今日のみ言葉でも語られています。口先だけでなく行動においてもイエスは新しい時代を告げ知らせ、行動する人でもあったようです。当時の社会は貧しい人が多いだけではなく、未発達の科学や医学の中で、原因不明の病気もたくさんあったでしょう。今の私たちには簡単に治せる病気も、当時の病気には治せない病気がたくさんあったと思います。病気に苦しむ人が大勢いた。会堂の中で、イエスの話しを聞いている一人が突然イエスに向かって叫びます。「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」汚れた霊に取りつかれた人の叫びに周りの人々も驚きました。こういう言葉だけを聞くとびっくりするでしょう。神の聖者という言葉でさらに驚くでしょう。普段聞くことのない神の聖者。驚きながらその人に沈黙したと思います。霊に取りつかれたこの病人は、イエスを初めから正体は分かっている、神の聖者だと認めています。そこにも不思議を感じますがイエスのかけたひと声。「黙れ。この人から出て行け。」そのひと声で霊に取りつかれた人は変わって病気が回復します。その人の苦しみが開放される瞬間が始まりました。イエスの権威に溢れたひと声が、このカファルナムの町の状況を一変していく宣教が始まるようです。
 ナザレの小さな田舎で人知れず、ごく平凡に暮らしていたと思われるイエス。でも、イエスはヨハネが捕らえられた後に、カファルナムに移り住んだとも言われています。イエスが語り、教え始められると人々はその教えに圧倒されます。その教え、言葉、存在にも力強さが満ち溢れていたのでしょう。人々の心さえも揺さぶるイエスの教えであり、言葉でした。権威に満ち溢れ、慈愛に満ち溢れたイエスの言葉。人々の心を捉えていきます。イエスの宣教の姿がそこに重なっていきます。言うべき時ははっきりとイエスは話されています。時には厳しい言葉にもなったかのようです。伝えるべき内容が中味のない言葉では人の心の中には響かないと思います。触れあう心と心で生きることが出来ていないと感じることがあります。私たちは出会いをとおして、触れあう人と人との関係を大切にしています。本当に心と心の触れあいを感じる言葉や行動に接すると安心も感じます。時には、その言葉、行動によって希望も温もりも感じられます。イエスの権威や言葉はきっと人々に心の変化を促していったと思います。心と心の触れあい、それが信頼へと繋がっていったと思います。語る言葉にごまかしやいつわりがあっては相手にとっても空しいことばかりだと思います。私たちもそうしたとき心を使って大切にしていきたいと思います。

  今日のみ言葉の中に見えてくるイエスの姿から、信じることへのひたむきさ、出会う人への愛、無心な努力。そこにイエスの命をかけて捧げる仕える心もまた感じてきます。ひたすら真っ直ぐに突き進むように、燃えるような愛の心が私たちも必要かもしれません。神の国を告げ知らせ、神の国へとひとり一人を導こうとするイエスのひたむきな態度。私たちも心をそこに向けていくと思いますが、溢れる愛、命の確かさ、権威と光が人々を引きつけているということを、これからイエスの福音の姿をとおして、私たちはこの一年間、学んでいきます。み言葉をとおして接していきます。
 私たちの心を引きつけるマザー・テレサの祈りを紹介します。「主よ私をお使いください」
という祈りに、イエスの宣教の行動が重なって感じています。

                 「主よ、私をお使いください」
   主よ 今日1日 貧しい人や病んでいる人々を助けるために  
    私の手をお望みでしたら今日 私のこの手をお使い下さい
   主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
    私の足をお望みでしたら今日 私のこの足をお使い下さい
   主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
    私の声をお望みでしたら今日 私のこの声をお使い下さい
   主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
    私の心をお望みでしたら今日 私のこの心をお使い下さい
 主よ私をお使いくださいというマザーテレサの祈り。マザー・テレサはこの祈りにあったように、自分の信仰を全身全霊をもって生涯、主のために自分のすべてを使い天に召された方です。

 神の世界のすべての人に伝える、これがイエスの使命でした。口も手も足も、すべてを使ってイエスは神の国の宣教に翻弄されていきます。私たちもイエスの手、足となって福音を伝えることは大切なことです。私たちに出来る福音宣教。愛のメッセージを伝えることは言葉だけでなく手も足も使うことが必要です。手も足も言葉も使いキリストの愛を伝えていく私たちの信仰生活になります。私たちはそのためにも、強い信仰に支えられなければならないはずです。今日も心の目を開けて心から祈り、そして新しい一週間に向かって歩んでいきましょう。』