来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の集会祈願では
「神様は悩み苦しむ世界に救い主を遣わしてくださいました。私たちが今日祝う教会の秘跡をとおして、全ての人をいやしてくださるキリストに出会うことができますように。」というお祈りがありました。
今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。
『来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の「聖書と典礼」の集会祈願には、「神は悩み苦しむ世界にイエス・キリストを遣わされた」という内容の祈りが入っています。
神は愛する我が子を悩み苦しむ世界に遣わされ、私たちは救い主イエス・キリストと出会い祈りを捧げます。
私たちはイエスの十字架によって救われ、その憐れみを受けていると、頭の中では理解している私たちですが、そのイエス・キリストをどこまで信じ、信仰を生きているでしょうか?祈りが終わってしまうと、イエスの十字架によって救われている私たちであることを忘れてしまっているような気がします。私たちが信仰を生きるということは簡単なことではないと感じます。
私たちは教会に集まり、ひとつになって教会で主の祭壇の前に一致して祈りますが、その祈りは自分のためだけではないと言うことは言うまでもありません。皆さんの祈りは家族や身近な人、また、社会に目を向けての様々な祈りがあります。私たちの教会ではミサの前に祈りを捧げていますが、その時は教会の意向を捧げ、隣人への祈りをしています。教会共同体の一人として考える時、静かに座っている隣の人のことを皆さんはどの程度意識されているでしょうか。私たちの共同体の一人であったとしても名前も顔も初めて見るような人が自分の隣に座っているのかもしれません。隣に座っている人の名前も知らず、言葉も交わすことなく、私たちの祈りが捧げられるとすると、少し寂しいことではないでしょうか。
時折、聖堂が私語で騒がしいという声が上がることがあります。「聖堂は祈りの場所ですから、私語のお話は慎みましょう」というのが一般的な考え方です。でも視点を変えて、祈りが大切であると考えるとき、悩み苦しむ人のために祈るとするならば、その人の痛み、苦しみに触れ、寄り添うということは、祈るうえでとても大切なことになってきます。しかし、そのことを知ろうとしなままにしていることが多いのではないでしょうか。
祈りの場である聖堂の中で話をすることは、あまりよくないことであるなら、どのような方法が考えられるでしょうか。お互いのことをよく知らない共同体のために、何か工夫が必要ですし、考えていかなければならないことです。
ミサが終わって、帰り際にでも言葉を交わし、少しでも教会で出会った人のことを知るならば、次の週のミサの祈りも変わってくるような気がします。
私たちが隣人のために祈るときには、少しでも相手に寄り添い、相手の痛みに触れながら、神様からの力がその人に与えられるように、もっと心を込めて祈ることができるのではないでしょうか。
神を知り、信じる人たちがこの教会に来ています。過ちに気づき赦しを願い、再び神の恵みを知り力強く生きるために、この教会に来て祈りを捧げる人も大勢いると思います。今抱えている苦しみと痛みが癒やされることも大切です。
人と人とのつながり、触れ合い、助け合いの心が変わってきて、このままではいけないと気づき始めている私たちでもあります。
もう一度、私たち一人一人が大切にしなければならないことを見つめ、私たちの生活や信仰に結びつけることが求められているのはないでしょうか。
今日も私たちは、御言葉をとおして黙想し、主イエスの姿に目を上げて、宣教するイエスに私たちもつながっていくことが出来るように祈りましょう。』