2018年2月11日日曜日

年間第6主日 世界病者の日

今日は教皇ヨハネ・パウロ2世が定めた「世界病者の日」です。
福音では、イエスが重い皮膚病の人をいやす奇跡が朗読されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の主日を持って、新しい季節に入ろうとしています。今週の「灰の水曜日」から四旬節です。
  今日の福音はイエスが宣教に出かける日々の中での病気の人を癒すみ言葉でしたが、皆さんはどのように受けとめ考えているでしょうか。病気は誰もが無関心ではいられない。風邪をひいたり、ちょっと体調が悪いと感じている方もいるでしょう。そういう意味では健康でいるとは簡単なことではないと思います。健康で有り続けることは私たちにとって夢でもあると思いますが、難しさを感じます。
 
 今日は「世界病者の日」です。いろいろ考えさせられる日になっています。世界病者の日は教皇ヨハネ・パウロ2世の時代、1993年に制定されました。病人のことを考え、祈りましょうというのが趣旨です。この日に教皇様は毎年メッセージを出しています。カトリック新聞に全文が載っています。(https://www.cbcj.catholic.jp/2018/02/06/15915/)この日は「ルルドの聖母の日」でもありますが、教皇様はマリアにふれながら私たちに呼びかけています。その一節を紹介します。
「7.いつくしみの母であるマリアに、わたしたちは心身に病を抱えたすべての人をゆだねます。マリアが希望のうちに彼らを支えてくださいますように。また、病気で苦しんでいる兄弟姉妹を受け入れることができるよう、マリアがわたしたちを助けてくださいますように。」
教皇様の意向に少しでも答えられるようこのミサの中で祈りましょう。 
 また、日本の司教団もこの日にあたり意向を示されています。「病者がふさわしい援助を受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように、カトリック医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていかなければなりません。」

 先週も、ペトロのしゅうとめが熱を出してという病気を抱えた話しがありました。病気は罪の結果なのだろうか。その不幸は神様の怒りなのだろうか。いくらそうではないと言われても、心の中は不安を抱きます。イエス様の時代はそのような考えが多かったといえます。病気は罪の結果である。広く一般に考えられたのでした。罪の悔い改めのため犠牲を捧げました。今日の福音は「私は宣教するために来た。」という先週のみ言葉に続くものです。病人に対するイエスの行為とその態度をどのように見ているでしょうか。先週のイエスの姿は特別な姿です。イエスがそばにいき手をとって起こされる。熱は去った。今日の福音では、イエスが深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、と表現されます。病んでいる人、苦しんでいる人に近づき、イエスは手をとって支えます。イエス様の一言でその人は清くなった。
  イエスのところに来た人、近くにいる人を深く憐れんで、同情を注がれイエスは行動に移っていきます。愛の眼差しばかりではなく、時には厳しい場面も聖書では描かれますが、癒しを受けた人は周りの人に伝えていくことになりました。イエスの福音宣教の効果かもしれませんが、ペトロのしゅうとめの話しからも、その噂は広まっていったのでしょう。
 当時の人々は何百年も続く他国からの支配によって苦しい生活を余儀なくされていました。
そういう中で熱心な信仰を持つ人々は、メシアが私たちのもとにやってくるという期待を持っていました。イエスが奇跡を起こされた話しは、そういう人々の中で広まっていくのは当然のことと考えます。治せないはずの病気が治った。歩けない人が歩き出した。目の見えない人が見えるようになった。これらは神の栄光を表す業として行ったのですが、人々にはそれ以上の驚きでした。中には癒されて自分の心が百八十度変わって、信仰に目覚めた人も多かったかもしれません。しかし、目先の利益だけを求めて集まった人も少なくなかったでしょう。イエスはまた、癒された人をすぐ自分から離れるように促されました。これは不思議に思いますが、真の救い主メシアの誤解を招かないためでした。目先の利益を求める人を恐れたからもしれません。大きく広まるイエスの福音宣教の壁となったのかもしれません。イエスの福音宣教は神の愛を知らせ、一人ひとりの中にその愛を実現させるためでもありました。奇跡はその救い主としてのしるしでしかありませんでした。
  今日の福音に登場する重い皮膚病の人というのは、現在では差別用語で使われなくなった「○○病」を表す病気であったと言われています。つい先日、真夜中でしたがテレビで「ベンハー」の映画が放映されていました。何度もこれまで観ていますが、その度に感動を覚えています。今回も重い皮膚病の母親と妹が癒されるシーンを眺めていましたが、新しいことに気付かされるのですね。

  いずれにせよ、私たちは時に、自分のいたらなさ、弱さ、罪からこんな不幸を負うという思いがありますが、必ずしもそういうことではないと教会は言い続けています。不幸の中にあっても、神の祝福はその人から離れないことを、私たちはもっともっと信じなければいけない。病気の中にあっても神様は私たちを祝福してくださっている方。ですから、希望や信頼を見失うことなく、私たちは生きなければなりません。
  そういう想いで今日のみ言葉も、深く黙想することができるような気がします。私たちの信仰は目先の利益を求めるための信仰ではないということを、もう一度心に留めたいと思います。そして、病気や苦しみによって神の愛を見失うことのない信仰を、私たちはもう一度、願い強め成長させたいと想います。
 今日は「世界病者の日」であることも心に留めながら、病気の人に寄り添い、その救いのために支援のために、私たちの祈りと私たちの出来る支援を続ける決意をいたしましょう。』

主日ミサの後に、毎年この時期に行われる「雪割り」がありました。
男性信徒が中心となって、屋根に溜まった雪や氷を降ろしました。
今年は例年よりも雪が少ないとはいえ、湿気を含み重たくなった雪や氷を協力して片付けました。


心地よい汗を流した後は、女性陣が用意して下さった温かい豚汁に舌鼓をうちました。
皆様、大変お疲れ様でした。