2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日「洗礼志願式」

先々週の洗礼入門式に続いて、ミサの中で「洗礼志願式」が行われました。

代父母と会衆が見守る中、9名の志願者の方々が洗礼の意思を表明されました。

続いて、一人一人にニケア・コンスタンチノープル信条が授与され、一緒に唱えました。


最後に、後藤神父様から志願者の額に聖香油が塗油されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『四旬節第4主日を迎えていますが、今日は典礼で言うと、少し特別な四旬節の第4主日になっています。「バラの主日」を聞いたことがあると思います。今日の四旬節第4主日をかつては「バラの主日」と言っていたそうです。少し調べてみましたが、バラ色…誰でも華やかな色を想像すると思いますが、喜びを表すことにも繋がっているようです。何故、今日が、「バラの主日」、喜びが含まれた主日なのでしょうか。お手元の聖書と典礼の入祭唱のところを見てください。
 「入祭唱(イザヤ66:10~11参照)   神の民よ、喜べ、   神の家を愛するすべての者よ、ともに集え。   悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。   神は豊かな慰めで  あなたがたを満たしてくださる。」
 喜びという言葉が出てきます。ここに四旬節の中にあっても、少し特別なバラの主日、喜びが含まれている主日になるようです。紫色の祭服を今着ていますが、紫は償うと言う意味を含む色だそうですが、その償いの精神を少し弱めて、復活という荘厳な喜びが近づいて来たんだということも、少し強く意識するバラの主日ということのようです。
  今は昔と典礼も変わってきて、バラの主日を強調するような典礼では、なくなってきています。しかし、教会の典礼の規則、「ローマ・ミサ典礼書の総則」従来の308項では、バラの主日のことが今も伝えられています。
 「ローマ・ミサ典礼書の総則」(暫定版) 346〔=308〕祭服の色に関しては、伝統的な使い方を守るものとする。 すなわち、(略)   f) ばら色は、習慣のあるところでは待降節第3主日(ガウデーテの主日)および  四旬節第4主日(レターレの主日)に用いることができる。
 今日は典礼のお話しから始まりました。「レターレ」という言葉がこの日に使われているそうです。グレゴリアン聖歌が好きな方はレターレの歌詞を思い出すかもしれません。
♪ Regina coeli laetare, alleluia:(レジナ シェリ レタレ アレルヤ)♪  レタレ アレルヤ、これは四旬節が終わって、復活節に入って、そのときに歌われるレジナシェリです。レタレは歓喜せよ。喜べという言葉です。ですから、復活節に入ると、天の元后、喜びたまえ アレルヤ。日本語でこの歌はあります。この喜び、これが四旬節第4主日を「バラの主日」にしています。

 今日のみ言葉は、ヨハネによる福音です。ファリサイ派でユダヤの議員であったニコデモとイエスの話しから、今日のみ言葉が語られています。このニコデモという人はファリサイ派の人でしたが、イエスが神と共にあることをすでに知っています、見ています。そういうニコデモは、イエスの行う数々のしるしを不思議にも思っていたようです。奇跡を見たり、奇跡の話しを聞いたりしながら、確かにこのイエスという人は神と共にあると違いない、そんなふうにも考えていましたが、充分な理解が出来ず、少し戸惑いがあったかのようです。イエスに話しかけるニコデモですが、イエスはニコデモに新しく生まれることが大切だとお話しをしています。新しく生まれると聞いたニコデモは、そんなことが可能でしょうかという答え方をして、イエスと話しをしているのが、今日の聖書でのお話しです。
 
 その話しの後に、今日の旧約聖書の話しも出て来ます。
  イエスは新しく生まれることに関連させて、旧約聖書の「蛇の話」のことが語られました。旧約聖書の民数記(21章)で描かれているお話しです。それはどういうことかと言うと、エジプトからイスラエルの民が導き出されたことは私たちも良く知っています。モーセに導かれて苦しい奴隷のような生活からエジプトから離れ、旅する民となりました。最初はエジプトの苦しみから解放されて喜んでいた民かもしれません。が、旅が長く続くと食べ物も大変です。お腹もすくし、天候も厳しいし、砂だらけ泥まみれの生活の旅でしたから、不平不満がだんだん大きくなってきたようです。
  飢えや渇きの中で厳しい辛い生活をイスラエルの民は、モーセに感謝の言葉どころか、つぶやき始めた。そして、やがて神とモーセに対しても逆らうようになってしまう。まさに、救いの計画の中で罪を犯すイスラエルの民となってしまいました。そんな日々が続く中で、モーセもその現状に悩み苦しんだでしょう。それで神は、罰として燃える蛇を天からイスラエルの民に降らせます。蛇に噛まれると焼け付くような痛み、激しい熱もきっとでたのかもしれません。蛇は炎の蛇と呼ばれるようにもなりましたが、多くの民が亡くなります。そんな日々が続く中で、自分たちの罪を認めた民はモーセに助けを求めました。モーセは神に祈り、イスラエルの民の罪を償って救うために神から言葉をいただきます。神は青銅の蛇を造って、それを見るものは救われると話されました。神が遣わした蛇に噛まれた者は、そのモーセが造って掲げた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われたのです。
  この場面を黙想すると、神の約束を信じて見つめる者は救われる、そん思いが私の心の中にも見えてきます。神の約束を信じて 見つめる者は救われる。それは新約の出来事で、イエスの十字架の購いにも繋がっているように思われないでしょうか。神に逆らい、罪を犯し、そうした人々がイエスの購いによって救われる。私たちはこの四旬節、高く掲げられた十字架のイエスを仰ぎ見、死から復活する、闇から光へ導く救いというものを黙想しているのではないでしょうか。黙想し祈っているのではないでしょうか。
 四旬節を歩む私たちの信仰を見つめる絶好のテーマが今日のみ言葉にもあります。四旬節、
もう一度私たちは今日のみ言葉に照らして、私たちの信仰から本当に救いに、闇から光に向かう 信仰の歩みを続けられるように祈っていくことが大事です。

 今日、もうひとつ触れなければならない出来事が、私たちの日本人の中に含まれています。
2011年3月11日、午後2時46分に発生した東日本大震災。7年が過ぎたことが報道され続けて来ました。日本の社会が体験した忘れられない出来事です。この大地震は多くの人の生活を一変させ、特に東北地方を中心とした多くの町の姿を変えてしまいました。今日の朝刊でも、一番新しい死者の数が記事になっていました。今なお、2千500人を超える人が行方が分からない、7年経ってもそんな状態が続いています。あの時を忘れない。忘れてはならない。復興支援がずっと続いています。カトリック教会も日本の司教様たちと共にいっしょに 犠牲者や被害者のために祈り、その支援を続けてきています。大震災を忘れないということ、忘れてはならないことで、東日本大震災の祈りも今なお、私たちは唱え続けています。
  私たちに出来る復興支援、少し関心が薄れてきているかもしれません。札幌教区の支援もこの春で、大きく変わろうとしています。これまでボランティアを毎月派遣することが変わるようです。ただ、支援は続けなければならないとして、何かもう少しちがったかたちで出来る事を考えなければと思います。インターネットで被災の状況をいくつか見ていました。祈りも大切なことは当然なのですが、祈りだけでなく今の私たちひとりひとり、今の自分に出来る支援を考えていきたいと思います。今なお、支援を呼びかけるインターネットの文書の中には、祈りという言葉は見あたりませんが、参考になることはたくさん出てきます。「応援しよう東北」私はそのあとのいくつかの言葉に興味深く心に留まりました。「買って応援、旅して応援、参加して応援、寄附して応援」こんな支援のかたちがあることが分かりました。私たちが出来る祈りと支援、忘れてはならないと思います。今なお仮設住宅から出られない人がたくさんいます。出たくても、お年寄りの一人住まいの方は、また不安な状況が生まれると聞いています。東日本大震災やそのほかの大きな事件や事故がありましたが。悲しむ人はたくさんいますが、今日改めて3月11日ということで、私たちは祈りを続けていきたいと思います。

  最後に、今日の志願式について触れたいと思います。入門式を先日(2月25日)行いました。洗礼の準備、回心式の準備を進めている人がいます。洗礼の決意を固めての、求道者としての最後の準備を進めていこうとしています。そして、入信の秘跡によって教会に加わることをこの洗礼志願式で確認して、使徒たちが伝えた使徒信条、信仰宣言をこの志願式の中で授与することになります。
  今日のみ言葉。青銅の蛇を仰ぎ見ることよって救われた民のように、皆さんとともに四旬節の準備をして、私たち一人ひとりも新しく生まれ代わる恵みを祈りたいと思います。』