2018年3月18日日曜日

四旬節第5主日 「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」

私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つになったとき、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるのかもしれません。

この日のミサは、3日後に叙階式を迎える佐久間助祭と箕島神学生のお二人が奉仕をされました。お二人のためにたくさんのお祈りを捧げましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日から3日後に、それぞれ司祭と助祭の叙階を受ける佐久間助祭と祭壇奉仕者の簑島神学生の二人が今日のミサの奉仕をしてくれています。
 今読まれた福音の中でも「わたしに仕えようとするものは」とあったように、誰よりも何よりも神様と教会に仕えようとしている二人の上に、どうぞたくさんのお祈りを捧げていただきたいと思います。
 私自身も叙階式の準備のために司式の確認をしていたところでしたが、私にとっても「仕える」という言葉はとても心に響いています。ですから、今日の福音を叙階式の前に黙想するような思いで見つめています。

 自分の使命、自分の役割を自覚し、その全てを果たすことが出来るとしたら、人はどのように考えるものでしょうか?ある人は「これ以上の幸せはない、もう十分だ」そんな想いで言い切ることができるでしょうか?自分の使命、自分の役割を果たすことが出来るならば、それは本当に幸せそのものであろうと思います。そしてその幸せをさらに保って、成長させて生き続けたいと思うのは誰しもの願いかもしれません。
 イエスのことば、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」叙階を前に二人は、”救ってください”という祈りをしているでしょうか?それとも大きな喜び、救いそのものの中で神に心を開いているでしょうか?

 人生振り返ると、様々なことが思い起こされます。苦しい時もたくさんあります。しかし、そのような時に、共に歩んでくれた仲間がいるということを思うと、大きな励まし、力がそこから見出されます。
 私たちにとって主であるキリストは、どのような存在でしょうか?私たちの励み、力でしょうか?人によっては怖い存在、恐ろしい存在であるかのように強く感じている人も多いような気がします。私たちにとって共に歩む主イエスでありたいと願います。

 神の子として託された自分の使命を考えるイエス。完全なまでに父なる神に従う子としての役割を今終えようとして弟子たちと語り合っています。
 だんだんと近づいてくる十字架の死。この世を去る自分が、どのように神の栄光を表そうとしているのか。イエスには十分に理解されていることでした。しかし、人間イエスとして、苦しみ痛み、そして人々の救いへの思いがたくさんあったかと思います。
 誰もが経験する神の思いと自分の思い・願い、そこに時折大きな隔たりを感じることもあるかと思います。そしてその選択に迷いながら、私たちの日々、人生があるような気がします。神が願う選択が、正しく理解できるだけに、いくら祈っても自分の願いからは程遠いものに歯がゆく思うこともあります。それはその時、自分の願いが捨て難いために、神の選択に全てを捧げることが出来ない自分がいるからです。
 自分が背負うべき十字架なのだろうか?これがこの世で自分の命を憎むということに繋がってくるのだろうか?その神が示された一つの道と、自分が描き続けてきたもう一つの道の間で人は大きく揺れ動きます。絶対的な確信に至ることが出来なければ、迷いがいつまでも続くということになりそうです。イエスの道は迷う道ではなかったでしょうけれど、私たちはイエスの道を思い浮かべながら自分が歩むべき道と重ねて少し迷ってしまうような気がします。
 自由は時に残酷なようでもあります。天からの声が聞こえた時、イエスは迷いなく進むべき道に向かっていきましたが、私たちが歩んでいる今の道は徹底的に、神から示された道ではないことに時折気付かされます。私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つに融合されるならば、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるかもしれません。イエスが弟子たちと語り十字架の道に向かって歩もうとしている時、私はそのようなイエスの姿、イエスの心の内に触れるように、少し思い悩むような気がします。憧れもありますが、どこかで迷いも抱えている自分がいます。

 イエスはこの世から父の元ヘ移る自分の時が来たと悟っています。自分の死を受け入れ、私たちのために十字架に向かうことを決断されます。そのことは私たち一人一人をこの地上から引き上げ、天の自分の元へ引き寄せるためであった。永遠の命へ私たちを導くためであった。
 私は聖書の中で時々出てくる「永遠の命へ導く」というイエスの使命の言葉を聞きながら、この世に生きる私たちの信仰は、それほど強く永遠の命を意識していないという思いが強くあります。皆さんはどうでしょうか?日々の信仰生活、そしてその祈りの中で、永遠の命を希望する思いが強くあるでしょうか?
 永遠の命へ導くために私たちの元へ来られ、私たちと共に天の父を示されたイエス・キリスト。私たちの信仰の中で、そして私たちの本当の目的をしっかりと見極め、永遠の命の意識をもう少し強く持ちたいと思う時があります。
 この世に生きる私たち、キリスト者の永遠の課題、イエスの後に従って生きるために、必要なら命さえも惜しみなく捨てるべき、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」ということばが残されています。このイエスのことばが、もしかすると私たちを悩ませているというのが現実かもしれません。

 この世に生きている間は、この世の救いが限られたものであると分かっていても、私たちは天の御国のことよりも、やはりまだ現実の世で生きているときの幸せを、ただひたすら願っているような気がします。
 イエスの、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」
 いつの間にかそのことばは、私自身のことばにもなっています。ルカの福音ではっきりと述べられている「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 自分を捨てるということは必ずしも命を捨てるということに繋がらないかもしれませんが、私たち一人一人はどうしても自分中心、利己的な考え方から抜け出すことが難しいようです。人間としての喜びや幸せを放棄することの難しさがそこにあるのかもしれません。
 でもそのような悩みを抱えながらイエスの呼びかけに「はい」と答えることが出来ることを、私たちは願います。イエスの死が価値あるものと知っているからこそ、そのような生き方、信仰、教えを私たちは大切にします。
 父なる神のみ旨に一歩でも近づくことが出来るように願いながら、今日も私たちの信仰の道を歩み続ける決心をいたしましょう。
 そして主のご聖体が私たちの元に近づき、私たちの元で一つになります。そのことも大きな恵みそのものです。主の祭壇を囲みながら、私たちの祈りを捧げましょう。』