松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ 松村神父】
主の昇天 福音のメッセージ
今日の福音の箇所(マルコ16:9~)は、マルコ福音書の福音記者が書いたものではないとされているが、それでも聖書に記載されることが許されているということは、また違う重要性も持つということなのだろう。そこで少し紐解いてみたい。
イエス・キリストの生涯を記す共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)はイエスの公生活を中心に置いた史実的視点から、その事実をもとにそれぞれの福音記者がイエスのメッセージを紐解いている。しかし、今日の箇所はイエスが確かに語っているものの、その力点は特に弟子が主人公となっているところ。つまり弟子を通して行われる教会の動きとその使命が、福音書に追記されたほど重要なものと理解されている。この箇所はたしかに古代の写本からは欠落されて記載が見つけられない。それでも歴代の教父たちは聖書として認めてきたことからも、追記者からの残された私たちへのイエスの強い意志の伝達が感じられる。それは共同体による福音宣教。今日の福音をのぞいてみると「全世界に行って」「新しい言葉を語る」「言葉は真実である」と語られる。その中でも「新しい言葉」とは何か?私たちは目から鱗が落ちる教えを何度もイエスのメッセージから聞いてきたのではないか。“人類への神の介入”、“イエスの社会の眺め方”、“イエスの思う関わりの優先順位”、“信仰による救い”、などなど人間では到達できない救いと主の平和を勝ち取る出来事を挙げればきりがないが、その中でも大切なことは私たちの日常生活で体験した神様との救われた関わりこそが、“真実味”となって、自信を込めて語れる言葉だろう。教えられた教科書を更に教えるのではなく、体験したことを自分の物にした生の声として届けること。それは他の人にとってそれが新しい言葉なのだろう。でも自分勝手に語るのではなく、まず咀嚼し、目の前の子どもでもわかるように提供することが大切なのだ。「至る所で宣教」するとは、「誰にでも」も含まれているからである。だからそれなりの私たち自身の積み荷の準備が必要。私たちはまず自分の心に一つ一つのイエスのメッセージを落とし込むことが必要となる。課題は大きい。まずはマルコ福音書16章8節まで書かれていることを土台にイエスの姿から救いを思い起こすこと。葬儀に参列した時には私たちは故人の功績を思い起こすでしょう。イエスについても同じ。
主の昇天は私たちへの遺産贈与の時。キリストが私たちに託し、私たちはキリストから託されたことを緊張感をもって受け止めていければと思う。背伸びするのではなく、私たちの中に既にあるイエスとの関わり事を語ることを多くの人が待っているはず。さぁ、イエスからいただいた恵の遺産で、人の目の鱗を取ってみようではないか。
【聖書朗読箇所】
全能の神よ、
あなたは御ひとり子イエスを、
苦しみと死を通して栄光に高め、
新しい天と地を開いてくださいました。
主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。
キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
ともに永遠のいのちに入らせてください。
集会祈願より
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第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著(あらわ)して、
イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに
聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までの
すべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、
数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって
彼らに現れ、神の国について話された。
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、
あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために
国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった
時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、
雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。
あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、
天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。
愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、
霊による一致を保つように努めなさい。
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、
一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、
すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、
恵みが与えられています。
そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、
地上に降りておられたのではないでしょうか。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、
もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、
ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、
キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、
神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、
キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節
それから、イエスは<11人の弟子に現れて>言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じる者には次のようなしるしが伴う。
彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、
病人に手を置けば治る。」
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。
主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、
それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。