レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ レイ神父】
いとも聖なる三位一体の厳粛さ
聖霊降臨後の第一主日-2021年5月30日
父と子と聖霊の名において私たちは祈ります。それらを一緒にした父と子と聖霊との名において祈るのではありません。神は論理的に唯一でなければなりません。人類にとって、ひとつの意思、ひとつの精神、ひとつの計画を持つ唯一の神を私たちは信じるのです。聖なる三位一体、キリスト教における神とは複雑です。それを理解するのには明確な言葉を使い、明瞭な考えを用いなければなりません。
この厳粛さにおいて、すべての教義のその教義を祝します。なぜなら教義が重要だからです。教会の神についての考え方は子供の遊びではありません。一度その考えを受け入れると、それは私たち自身のものになるからです。ある時から、私たちはもはや自分たちの考えを選べません。それらの考えが私たちを選択するのです。そのため私たちは神を正しく理解しなければなりません。結婚、家族、仕事、恋愛、戦争、金銭、哲学、ユーモア、宗教、楽しみ、スポーツ、などの全ての事柄を正しく理解することです。
教会は、その特質において神は唯一であり、そのペルソナは三体であると信じています。つまり、もしあなたが真っ暗な部屋にいるとして近くに何かの存在を感じると、最初に言うのは「何だろう、犬?、猫?、連れ合い、それとも風?」。もし暗闇にいるのが神であれば、その’何’という問いに対して「私は神である」と答えがあるでしょう。その存在が動物や風ではないとわかれば、次の問いは「あなたは誰ですか?」。それに対して神は三つの連続する声で答えるでしょう。「私は父であり、子であり、そして聖霊である」と。特性とは働きの源ですが、ひとつのペルソナが働きを成すのです。彫像にも目がありますが、それは見るためではありません。人間は卵を孵化させたり水中で息をしたりしません。鳥や魚の領分です。私たちの特質がどのような行動をとれるかという要因を決定します。ライオンの娘は雌ライオンで、それがすることをするのです。男の息子は男であり、男たちがすることをするのです。神の息子は神であり、神がするように、完璧に、知り、愛し、行動するのです。
私たちの三位一体の信仰は、神はひとつで存在するのではなく、愛の共同体の内にあることを意味します。神は自らの美しさや完全さにうぬぼれる自己陶酔のナルシストではありません。それよりも父の愛は永遠に子に向けられています。そして聖霊の愛は父と子の間を生き生きと巡っています。三位一体の三つのペルソナはその聖なる特質部分を分かち合うのではありません。完全にその特質を各々が持っているのです。この神学理論を更に進めると、人間は神の似姿で造られたので、その三位一体をモデルとして創造されており、神が内的生活でされるように、他者と共に、他者のために生きよということになります。神は三つのペルソナであるので、その完全さは、孤独な修道士より、家族のような地上の共同体によってもっと豊かに体現されるのです。
ひとつの神は三位一体として存在します。教会の神の考えと教会の三位一体の考えは同じところにあります。三位一体とは、私たちが理解しようとする信仰の頂点であるだけではなく、信仰の土台でもあります。聖なる三位一体の真実は早期に、そして度々学ぶものです。
我らの神、明確なるペルソナ、本質において唯一、威厳そのものは、洗礼の水が頭に注がれるとき、塗油の香油が掌に跡を残すとき、厳粛に呼び起こされます。そのすべての複雑さの内に、そのすべての簡潔さの内に、神よ、いつもこの世で、願わくば来たる世にも、われらと共にあらんことを。
Solemnity of the Most Holy Trinity
First Sunday after Pentecost—Solemnity/ May 30, 2021
We pray in the “name” of the Father, the Son, and the Holy Spirit, not in their “names.” God must logically be only one. We believe in one God with one will, one mind, and one plan for mankind.
The Holy Trinity, the God of Christianity, is complex. Clear language must be used and clear thinking deployed to grasp the Christian God.
On this solemnity, we celebrate the dogma of all dogmas because dogma matters. The Church’s thinking about God is not child’s play. Once we accept thoughts, they own us. At some point we no longer choose our thoughts, they choose us. So we must get God right so that we get everything else right—marriage, family, work, love, war, money, philosophy, humor, religion, fun, sports, etc.
The Church believes that God is one in His nature and three in His persons. This means that if you were in a pitch black room and sensed a presence nearby, your first question would be “What is that?” “Is it the dog or the cat, my spouse, or the wind?” If it were God in the darkness, He would answer the question of “what” by saying “I am God.” Satisfied that the presence was a person and not an animal or the wind, the next question would be “Who are you?” And to that question, God would reply in three successive voices: “I am the Father. I am the Son. I am the Holy Spirit.” A nature is the source of operations, but a person does them. A statue has eyes but it is not its nature to see. It is not man’s nature to lay eggs or to breath under water, but it is the nature of a bird or a fish to do so. Our nature sets the parameters for what actions are possible for us. The daughter of a lion is a lioness and does what lions do. The son of a man is a man and does what men do. And the Son of God is God and knows and loves and acts as God does—perfectly.
Our Trinitarian belief means that God does not exist alone but in a community of love. God is not narcissistic, admiring his own beauty and perfection. Instead, the love of the Father is directed toward the Son for all eternity. And the love of the Holy Spirit animates, and passes between, the Father and the Son. The Trinity’s three persons do not share portions of the divine nature, they each possess it totally. This theology means, by extension, that because man is made in the image and likeness of God, every person is created in order to model the Trinity by living with, and for, another, just as God does in His inner life. Because God is a Trinity of persons, then, His perfection is more fully embodied by an earthly community, such as a family, rather than by a lone monk.
The one God exists as a Trinity. The Church’s belief in God and the Church’s belief in the Trinity stand and fall together. The Trinity is not just the summit of our faith, something we work toward understanding, but also our faith’s foundation. The truth of the Holy Trinity is learned early and often. Our God, distinct in His persons, one in His essence, and equal in His majesty, is solemnly invoked as the water spills on our heads at Baptism and as the oil is traced on our palms at our anointing. God, in all of His complexity and in all of His simplicity, is with us always in this world and, hopefully, in the world to come.
【聖書朗読箇所】
聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝するわたしたちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
集会祈願より
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第1朗読 申命記 4章32~34、39~40節
あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代に
さかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。
これほど大いなることがかつて起こったであろうか。
あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。
火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、
あなたと同じような民があったであろうか。
あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいて
あなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、
戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、
あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、
御自身のものとされた神があったであろうか。
あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、
ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、
今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。
そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、
あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章14~17節
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、
神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、
わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、
イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」