湯澤神父様の「福音への一言」を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音への一言 湯澤神父】
2021年5月23日 聖霊降臨の主日
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
『聖書と典礼』の裏表紙の「叙唱の味わい」の中で、聖霊降臨は過越の神秘の完成、復活節の五十日の締めくくりであると書かれています。洗礼を受けたキリストに注がれた聖霊が、キリストの業を受け継ぐ弟子たちにも注がれたことを記念し、そしてまた一つの信仰のうちに一つの共同体を作るとも書かれています。
狭い意味での受洗者の初聖体の準備の期間であったものが、復活祭の洗礼の約束の更新の準備という理解にまで引き延ばされた四旬節までを視野に入れて全体を見通してみると、より深い世界が広がってきます。つまり、新な洗礼と洗礼の約束の更新を頂点にした前後の約五十日間ずつは、灰の水曜日から聖土曜日までの洗礼の準備の期間と復活祭から聖霊降臨までの新たな出発への準備の期間という二段階の準備の期間と理解できます。こうした意味合いでこの期間を意識して過ごそうとしましたが、今年もコロナのために中断せざるを得なくなってしまいました。
しかし、こうした意味を踏まえて聖霊降臨の意味を見直すと、堅信の秘跡の意味の再確認につながるのではないでしょうか。聖霊を受けてキリストの復活の証人として派遣されていく、自分たちのキリスト者としての使命の再確認です。つまり、毎年灰の水曜日から始まるこの期間の終わりに、私たち自身も、使徒たちがこの世に派遣されたように、今日のこの世にキリストの復活の証人として派遣されているということを新たにするのです。その使命は、三つの朗読と叙唱にも表れています。私たちの共同体は、その始まりから御父である神を知らせ、キリストの復活を告げ知らせ(宣教する使命:ケリュグマ)、一つの信仰のうちに集まり、同じ信仰者を集め(共同体を作る使命;コイノニア)、キリストを通して具体的に示された在り方を生きる(仕える使命;ディアコニア)のです。
この使命に生きるとき、忘れてはいけないことがあります。福音の中でキリストが述べているように、私たちには常に派遣された方が身近におられるということです。彼は、弁護者と言われていますが、私のそばに御父と御子によって派遣された方なのです。この方は、キリストが御父から受けたそのすべてを譲られている方です。真理の霊とも呼ばれる聖霊は、共にいてすべてを教えてくださいます。こうして私たちはいつどこにいてもどんな状況にあっても孤立していません。それは、この方が私たちにキリストの真の姿を見させてくださると同時にキリストを共にいさせてくださるからです。更に、そのキリストを通して御父である神とも共にいさせてくださいます。私たちはこれほど支えられているのですから、恐れることなくキリストから委ねられた使命に勇気をもって生きていきましょう。コロナの猛威に晒されている今、自分が生活しているこの困難な時代に。
湯澤民夫
【聖書朗読箇所】
すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように
集会祈願より
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第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、
信心深いユダヤ人が住んでいたが、
この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、
あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、
また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。
また、ローマから来て滞在中の者、
ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、
クレタ、アラビアから来た者もいるのに、
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節
わたしが言いたいのは、こういうことです。
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、
決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。
肉と霊とが対立し合っているので、
あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、
このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は
愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
これらを禁じる掟(おきて)はありません。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、
肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、
霊の導きに従ってまた前進しましょう。
福音朗読 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節
<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている
弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、
その方がわたしについて証(あかし)しをなさるはずである。
あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、
今、あなたがたには理解できない。
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、
あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、
また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
その方はわたしに栄光を与える。
わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。
だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、
あなたがたに告げる』と言ったのである。」