教会の典礼暦では今日が年間最後の主日になります。今日の福音(マタイ25・31-46)は私たちに愛の奉仕の大切さを教えてくれます。
来週からは、新しい一年、待降節が始まります。
降誕祭を迎えるために、今日の福音と神父様のお説教をヒントに、心から出た愛の奉仕について黙想しましょう。
後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。
『皆さんが季節の変わり目を感じるのはどういう時でしょうか?
春ですと進級や就職など、そして、今この時期ですとクリスマス商戦でしょうか。
教会も新しい季節を迎えようとしています。
典礼暦では、今日の「王であるキリスト」の祭日が年間の最終主日になります。
そして、今日のみ言葉(マタイ25・31-46)は、終末を迎えるときのキリスト者としての私たちへ、愛の奉仕がいかに大切なことなのかというメッセージが込められています。
当時のパレスチナでは、羊や山羊がいたる所で飼われており大変身近な存在だったようです。羊と山羊は日中は一緒に放牧されていたようですが、夜になると分けられました。今日のみ言葉では、このことをたとえに使っています。
人々は神の前に集められたとき、右と左に分けられました。なぜ分けられたのか?それは、その人が行った愛の奉仕によるものです。キリストは王であることを宣言し、裁きの座に着き最後の審判を下します。
私は聖書を読むとき、その中に自分を置いてみることがあります。私は山羊だろうか、羊だろうかと、そんなことを考えると怖くもなります。しかし、王であるキリストの前で、自分自身の行いについて黙想し振り返ることによって気付かされることがあります。これはとても大切なことです。
キリストは言われます「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。神様に祝福された人、それは純粋な心で無意識のうちに”小さい者”に手を差し伸べる人々のことです。反対に呪われた者とは、「もし目の前にイエス様が現れたなら跪いて捧げものをするのに、それが貧しい人や汚い身なりの人であったら、気付かない振りをして通り過ぎてしまう」そのような人たちのことでしょう。
私たちも祝福された人になるように変わらなければ、裁きの日にどのようになってしまうのでしょうか?
主の降誕が近づく中で、私たちの身近にもいる貧しい人、小さな人々、悲しみを心の中に抱えている人々と共に、本当の平和を歩むことが出来るように、共に祈り、そして新しい一年に向かっていきたいと思います。』
前田さん、今朝も寒い中、有難うございます!
いつも主日ミサの前には、教会の駐車場の整理をしてくださっており、一人一人の信者さんに声をかけてくれます。
御ミサの後、カテドラルホールで「DVDを観る会」が行われました。
今年の8月29日に放送されたNHK BS1スペシャル「憎しみとゆるし~マニラ市街戦 その後~」
昭和28年、当時のキリノ大統領は恩赦を決意し、BC級戦犯全員の日本への帰国を認めました。
大統領の家族をはじめ、多くの人々が日本軍の手によって犠牲になったのにも関わらず。
「憎しみを忘れなさい。憎しみにとらわれてしまうと、子供にも憎しみが受け継がれてしまうから」
戦争の悲惨さ、平和の尊さ、人間の尊厳とは、キリスト者としての生きかたとは?
多くを語りかけてくれる内容でした。
見逃した方は、宣教養成部 石井さんからDVDをお借りすることができます。