2019年7月28日日曜日

年間第17主日 「主の祈り」

ルカ 11・1-13
この日の福音でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。
祈りというのは自分自身を見つめることでもあります。
自分の願いは何でしょうか?


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の場面ではイエスがエルサレムへ行く旅の途中が続いています。 先週はマリアがイエスの足元で話を聞いていて、マルタがイエスに食事を出すために忙しく働いている場 面でした。 マルタはマリアの態度を見て自分の正当性を訴えられました。 イエスはマルタをさとされました。 それによってマルタの祈りは受け入れられたのです。 マルタが望んでいたようにではなく、神の望んでおられたことはこういうことだったとマルタは理解したと思います。

さて、今日の福音はイエスがあるところで祈っておられたという言葉から始まります。 弟子の一人がイエスにわたしたちにも祈りを教えてくださいと言います。 わたしたちにとっても祈り方というものは切実なものかもしれません。 神父様、こういう時にはどのように祈ればいいですか、と聞かれることがあります。 例えば、墓をしまってこちらに移したいのですがどう祈ればいいですかとか、ロザリオが壊れてしまいましたどうすればいいですかと聞かれることがあります。 こういう時に話すのは、「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と、感謝の気持ちを伝えて処分すればいいと伝えます。 土に埋める、あるいは燃やすのがいいと思いますが、今の世の中はなかなかそうもできませんので、通常のごみと一緒に捨ててもいいと伝えています。 すでに感謝の祈りをささげたなら目的を達成した物として処分できると思います。 もし捨てきれないというのであれば、直接司祭に持ってきてください。 司祭の権限で処分しますので安心していただければと思います。

今あえて「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と言いました。
この神への呼びかけとして「父よ」という言葉はもともとユダヤ人の祈りでは出て来ません。 旧約聖書では知恵の書、シラ書で神に願うときに、数回、出ているだけです。 この2つの書物は紀元前3世紀以降にギリシャ語を用いるユダヤ教徒が書いたものです。 ギリシャ語で書かれているけれども、カトリック教会ではユダヤ教徒が伝えた大切な聖書として扱っています。 ともかく、イエスは祈るときにはまず「父よ」という言葉から始めています。 これは当時とても新鮮だったと思います。 当時のユダヤ人の間では「父よ」というのは、子どもが「お父さん」と親しみをこめて呼びかける言葉でした。 逆に言えば、お父さんは子どもの呼びかけを聞いて「何だい?」と耳を傾けることになるでしょう。 そして、子どもの願いを聞き入れ、その願いをかなえてあげようとします。 それほどの親密な関係がわたしたちと神の間にはあるのだということです。
今日の福音の最後の部分、11節以降のたとえ話で父と子の関係に当てはめて、反語で強調しています。 反語というのは、言いたいことの反対の内容を疑問形で述べる表現のことを言います。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。 「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。
最近のニュースを見ていると自分の子供を虐待しているのをよく目にしますので、本当だろうかと揺らいでいる面もあるかと思います。 ただ、多くの親は、「自分の子供にはよいものを与えることを知っている」のです。 同じように、いやむしろ自分のお父さん以上に、神である父は求める者の願いを聞き入れてくださいます。

父である神に祈ることはわたしたちの基本的な姿勢です。 このミサもそうですし、日々の生活の中でも祈りはあると思います。 神はわたしたちの願いをすべてご存知です。 ですが、わたしたちが何を願いたいのかに気づいて、父である神に願うことがなければかなえられません。 ですから、祈りというのは自分自身を見つめることでもあるのです。 しばらく沈黙のうちに自分の願いを振り返り、感謝の祭儀を通して神の恵みを祈り求めてまいりましょう。 』