私たちは一人一人が福音を述べ伝えるためキリストから遣わされています。
今日のルカ福音書(10・1-12、17-20)では、72人を任命し、宣教に遣わされました。
湯澤神父神父様のお説教の大要をご紹介します。
『イエスが12人の弟子たちを宣教に遣わすという出来事については、共観福音書すべてに記述されていますが、ルカだけが72人を任命して派遣するという、もう一つの出来事を収録しているわけです。
この72人を任命して派遣するという背景には恐らく、モーセの出来事が前提になっていただろうと思われます。ユダヤ民族がエジプトから脱出してカナンに向かう途中、モーセの仕事があまりにも多かったので、誰かアシスタントをつくってはどうだろうかという話になり、70人を選んでモーセの前に集めたわけです。この70人がモーセの仕事を分担して、負担を減らしたという形になりましたが、どういう訳かそこに集められなかった人の中から、二人の人の上に霊が下って同じように予言を始めました。そして、その二人も加えた72人がモーセの手伝いをするようにったという出来事でした。
今日の福音朗読にあるイエスに任命された72人は、12人の弟子という特別な人たちだけではなく、もっと参集範囲を拡げているわけです。この意味するところは、宣教は12人だけの務めではなく、いわゆる全てのキリスト者がこの任命を受けているということと理解してよいかと思います。
この派遣にあたっては、「二人ずつ先に遣わされた」とあります。二人ずつというのは「一人ではない」ということです。これは、ある意味で共同体の宣教ということが前提とされているということです。宣教活動というのは個人プレーではない、共同体として宣教活動をするということです。それが「二人ずつ」ということに象徴されています。
さらに、宣教に遣わされる人たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と話され、必要性が開かれているということを伝えています。
それから宣教活動というものは、そう楽なものではないということも話されています。狼の中にエサを撒くようなものだと喩え、それだけ大変なものだということでしょう。それ故、共同体として宣教を行うということだと思います。
同時に、「財布も袋も履物も持つな」と話され、宣教にあたって、個人の能力とか、才能とか、地位とか、そういうものには頼らないように、ということです。宣教というものは、そういうものでやるわけではない、神が宣教するのであって、個人の能力に頼るのではなく、神だけを信頼するように、ということです。逆に言うこと、「私のような能力のない人間には出来ません」ということではありません。却って能力のない方が、相応しいのかもしれません。
「心の貧しい人は幸い」と言うように、神しか信頼できなければ、それだけ神を頼ることになるし、下手な能力があれば却って自分の能力を信用して神様を信頼しなくなる訳ですから、能力のない方がむしろいいのかもしれません。
「途中でだれにも挨拶をするな」とありますが、これは別に、しかめっ面して誰とも触れ合わないでということではなくて、目的が宣教に行くことにあるのだから余計なことをするわけにはいかない、という意味あいです。お喋りしたり、親しくなったり、することが目的ではないということです。
そして、どこかの家に入ったら「平和があるように」と。そこで実現するのが平和だというわけです。ただこの平和は、人間が作る平和ではなく、復活したキリストから来る平和です。所謂「主の平和」のことです。そこで集まっている共同体の中に、神の平和が実現するようにという意味であって、世界平和を祈っているわけではありません。この平和は人間が実現させる平和ではない、だから受け入れなければ戻ってくると言っているわけです。もし人間が作るものであれば、成功するか失敗するか、そんな程度のものです。
今日の福音朗読では、このように宣教というものを表現しているわけです。
私たちは、そこで、自分たちはどうしているだろうか?というところまで考えなければなりません。
内側を向いていて閉じ籠もって、お御堂の中にだけいて外にでない、漏らさない、というのはキリストの意向に沿ってはいません。
「行きましょう」と言われているわけですから、福音を伝えるために出ていくことが目的なわけです。そしてまた集まってくるというのが重要なのです。集まるために出て行って、出て行くために集まるわけですから。
常にこのようにして、福音を伝えるために私たちは毎週、派遣されているようなものです。
私たちは一人一人がキリストから遣わされているということを自覚しないといけないと思います。堅信を受けた人は全ての人が、この使命を受けている、キリストの共通祭司職に与っているわけですから、常にキリストによって遣わされている、そして共同体として遣わされているということを心に留めながら私たちの使命を自覚していかなければならないと思います。』