2019年7月15日月曜日

年間第15主日「善きサマリア人のたとえ」

ルカによる福音書 10章25~37節
イエスは、「自分の隣人とは誰か?」とイエスを試す律法学者の質問に対して「善きサマリア人のたとえ」を話されました。この話はルカ福音書だけに記されています。
このたとえ話をとおして、イエスの言われる隣人とは?そして、人が陥りがちな偏見・差別について考えてみましょう。

この日のミサは、勝谷司教様の司式でした。


司教様のお説教の大要をご紹介します。

『数年前の話ですが、東京管区の司祭の集まりで、次のようなことが話題になりました。日本の西にある大きな教区では信者も多いのですが、そこでは日曜日のミサに参加する出席表などのようなものがあって、それの出席率が悪いと秘跡を受けることが出来なくなるシステムを採用している教会がある。これは事実かどうか確認をとっていませんが。その話題が出た時、そんなとんでもないことをしているのかという反応がでることを私は期待したのですが、管区のその集まりのある一定の神父様方は「我々もそうすべきだ。」という意見を持っていることに大変驚いたことを記憶しています。つまり普段、教会で信者としての務めを果たさない、(それは教会維持費を納めていないことを念頭にしていたのですが)普段、教会に来ていないのに結婚や葬儀の時だけは信者としての権利を主張してやってくる。これはとんでもないという発想らしいのですが。
 そもそもこの発想は何か勘違いしていないか。教会はサロンではないですね。会費を払っていれば必要なサービスを受けられるようなところではありません。そして、教会維持費にしろ、教会員の務めにしろ、信者がその信仰に基づいて神に対する自発的な喜捨。そこに大きな勘違いがあるのです。しかし、同じような発想が、つまり守るべき規定を守っていないから、私たちの正常な関わりからは除外されるべきだ。これは長い間教会で支配されてきた考え方です。
 以前、シノドスから帰ってきたとき、この場所から話したことですが、そこでテーマになっていたことはまさにこのことです。教会は永い間、裁く教会であったこと。教会の掟を守れない人を排除しようとする。ひとり一人、それぞれの事情があって、守りたくても守れない。確かにその人自身に責任があるかもしれない場合もありますが、それがどのようなケースであれ、ひとり一人の心の状態に耳を傾け、寄り添っていくべきである。これがシノドスで打ち出された新たな今後の教会の姿勢として示されたのです。しかし、私たちの中にこの裁く心は、ひじょうに深刻に巣くっていると感じられることが度々あります。

 今日の福音書は、善きサマリア人のたとえ話として何度も耳にしたことがあると思います。憐れに思うという言葉は「はらわた」という言葉で、深い共感を表す言葉として知っていると思います。しかし、この対局にある律法学者の姿はどこに問題があったのでしょうか。もっとも大切な教えは何であるかは、この律法学者もイエス様も意見を同じくしています。それをどう解釈し、実践するかはまったく違っていました。この律法学者は神様の起きては徹底的に命がけで守るべきと考えていました。そして掟に、隣人を自分のように愛すると書いてありますから、この掟を厳密に適用するには、隣人というものが誰であるかをきちんと定義しなければならない。そして、律法学者の考えによれば、まず神の民に属さない、今日の福音書に出てくるサマリア人などは、最も隣人から除外されるべき人種であったのです。さらに罪を犯していく人たち。徴税人や娼婦という人たちは真っ先に隣人リストから除外されるべき人たち。それを神の前で正しいことと信じていたのです。 しかし、イエス様の視点はそれとは全く異なる視点でした。むしろ掟を守れない、正しく生きようとしてもそれが出来ない、そういう弱さや矛盾を抱え人たちの心に寄り添っていくなかから、その人たちに救いに至る道筋を同伴しながら示していこうとする、これがイエス様の姿です。
 人ごとのようにして聞いているかもしれませんが、実は裁く教会の姿は札幌市内の教会で何度もいろいろなところから報告されています。一番多いのは、子供の時から教会から離れてしまっている。結婚を迎える時、教会で式を挙げたい。普段教会に来ていないのに虫がよすぎると拒否されるケースがいまだにあります。これも札幌教区で実際にあったケースですが、葬式を拒否する。
  そのような裁く教会。それが当然だと思う信徒がいるのも確かです。しかし、これは何か私たちに大きな勘違いをしているのではないか。私たちに必要なことは、まず掟を優先し、それに人を当てはめることではなくて、むしろその掟を守れない人の心に耳を傾ける姿勢、これがとても大切である。そういう人の心の痛みに少しでも共感できるならば、
けっしてその人を頭ごなしに裁くことは出来ない。少しでも私たちがその人の心の痛みに共感できるならば、そこにおこってくるものは裁きは排除され、共に歩んで行きたい、支えてあげたい。心にわきおこってくる自然の営みです。
  今日の第一朗読で、この教会の掟を、律法学者のいう何百もある掟を覚えを守ろうとする困難な道ではなくて、最後の行にある「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)。私たちは自分の心に呼びかけられる聖霊の働きに従っているならば、難しいことではない。

  最後に、私が司祭になって間もない頃体験したことを分かち合いたい。司祭になった頃、数年間、子供たちはたくさんいました。毎年、召命錬成会というものを行っていました。50人近い男子だけですが、今で言えば差別になる。ただ、男子だけというのは、召命は男子だけと考えていたわけではなくて、とても野蛮なサバイバル・キャンプをしていたわけです。テントを張ったり、かまどを作ったり、遠くまで水をくみに行き運んでこなければならない。こんな体験生活は今の子供たちはしていません。楽しい、大胆な体験をたくさんしました。
  この召命錬成会の準備が大変だったのです。ある年には積丹でやろうと下見に行きました。弁当を持たして、まる一日費やすオリエンテーリングというものも計画しました。地図とコンパスだけ持たせ出発させるのです。そのオリエンテーリングのコースを探すために出かけました。一日かけて、最後に夕方になってひじょうにきれいな丘陵地帯がありました。そこは歩けるのではないかと、道路を逸れて山道を車で見に行きました。途中、ゴツンという変な音がしたのですが、気にせず一番上に着いた時に、オイル缶に穴が空きオイルがジャーと漏れていました。車は動きません。人里離れた所で途方にくれていたところ、下から2台の車がやってくるのです。そして、降りてきた運転手は「やっぱり。」と言うのです。下から登る道路があるのですが、逸れて上がっていくところで、オイルの跡がずっと続いているのを発見したのですね。その運転手さんは千葉から来たトラックの運転手さんでした。休暇をとってふたつの家族が旅行をしていたのです。この先に難儀をしている車があるに違いないという運転手の直感です。それでわざわざ登って来てくれたのです。そして、やっぱりいたと言ったわけです。それで私の車を牽引して小樽の工場まで運んでくれました。着いたのは夜8時。小樽のどこか旅館を予約していて、すでに家族で楽しんでいるはずの時間に、付き合わせてしまったのです。私は後でお礼をと思い名前や住所を聞いても教えてくれないのです。職業だけは分かっていたのですが。困った私はお金を包んで渡そうとしたのです。当然ですが受け取ろうとしないのです。その時、最後に何を言われたかというと「今度はあなたが道で困っている人を見つけたら、その人に返してくれ。」。びっくりしました。その言葉を聞いて、私は神父ですとはとても言えませんでした。信者以上に信者の心を理解する人でした。これは私にとって本当に善きサマリア人でした。私がその時にお礼をしたならば、そのことは完結したのだと思います。
 「次にそのお礼は別な人に返してくれ」という、最近そのような運動がどこかにあると聴いたことがありますが、その当時はそのような社会的な運動とか、ましてやインターネットのような情報が広がっていることもなかった時です。ですから、その運転手さんの自発的な心の現れだったと思うのです。もっとも福音の心を理解している人だと私は感じ取りました。まさに福音書のように「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)、この言葉を自分に投げつけられたと感じています。
 福音書は難しい理屈ではなくて、自分や人に対しての痛みを共感出来る、その心に従って行動するときに、私たちの愛の世界は広がっていくものだと切に感じました。』