2019年7月1日月曜日

6月30日(日)年間第13主日

今日の聖書朗読では、神が望まれる道を歩むことが最も優先されることとして示されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


(ルカによる福音書 9章51~62節)
『キリストに従う人たちの心構えについてキリストが語っている箇所ですが、文字面をみると非常に非人間的な感じがしないではないですが、この情況を見るときにそれは、もっとはっきり分かるのでしょう。「イエスが天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)。いよいよエルサレムに行って十字架に架けられる、天の父の意思を実行する。それに応える、その方向に向かって歩み始める。 そのときの弟子たちに対する望みをイエスは弟子たちに語っているわけです。

 ここの言葉を理解するために第二朗読のパウロのガラテヤの教会にあてた手紙を参考にすると少しは分かりやすいと思います。パウロ独特の霊と肉という対立で語っています。「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)。肉という言葉を往々にして道徳的に捉えたり、欲望という意味で捉えると、意味がひじょうに狭くなってしまうと思います。肉と霊はそういう対立ではない。神と関係のない人間の普通のあり方を「肉」と呼ぶわけです。神の意思に応えて生きる道を「霊」といってパウロは分けるわけです。
 肉に罪を犯させる機会はけっして道徳的に悪いことをしたり、そういう欲望に振り回されたりすることを意味するわけでなくて、時には非常に良いボランティアもこれに含まれてくるわけですね。一見外側から見ていると非常に良いことをしているように見えても、それが神の意思にそっていないことがあり得るわけですね。皆さんもご存じのバベルの塔の話があります。人間が力をあわせて塔をつくる。ひじょうに人間の持っている能力を十分に発揮した素晴らしい事業です。けっして神はそれを妬んで破壊したわけではないのです。神の意思に沿ってないので壊したわけです。どんなに良いことをしても、神の意思に沿っていなければ、神はそれを注意したり破壊したりするわけです。そういう意味で肉というのは、良いことをしていても、肉ということはあり得るわけです。
 そういうところからキリストの言葉を見ると「まず私に従いなさい。」(ルカ9:59)。そうするとその人は「父を葬りに行かせてください。」(ルカ9:59)。キリストは「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカ9:60)と言うわけです。
 この福音を伝えるという使命を受け、それに応えたこの人は、もうすでにそういう人間的な考え方に従った生き方をしてはならないことです。それが良い悪いではない。そのやるべき使命を果たしなさいということですね。キリスト自身もエルサレムに向かう、その使命を果たすために歩き始めている中での言葉ですから、そういう意味で全体の流れに沿って理解しなければならないわけです。

  このエリシャは、エリヤからマント(外套)を投げつけられて、自分の使命というものを、初めて神の召命を感じとって従っていこうとするわけです。  が、その家族との別れ、あるいは神とは関係ない生活を良いか悪いかは別問題、そういうものから決別するわけです。そして、決してそれを忘れないようにエリヤは言うわけです。「わたしがあなたに何をしたと言うわけですか。」(第一朗読、列王記上19:19、20)。そういう意味ですね。決して神から呼ばれたことを忘れてはならないといことです。

 私たちは往々にしてこの区別をしなくなっています。カトリック教会は罪というものを
ひじょうに道徳的に捉えすぎていて、本来の罪の意味を偏って狭くなっています。どんなに良いことをしていても、神の意思に沿っていなければ、それは極端に言えば罪です。立派なことをしているから罪ではないということではない。キリストが十字架に架かっていくときに、全能の父の意思を実現するために応えるためにいくわけです。その応えは、十字架に架かって死ぬことであり、降りてくることではない。人々は降りてきたら信じるかもしれない。しかし、それは父の意思には沿っていない。キリストはそれが父の意思に沿わなければ、それがどんなに効果的なことであったとしてもしないわけです。

 そういう意味で私たちも考えてみなければなりません。私たちはキリストの呼びかけに応えて、キリスト者として歩み始めたわけですから、何が大切なことなのか、それが分かるはずです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、主の国に入れるわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)とキリストも言うわけです。私たちは常に神、キリストの呼びかけを聴いて、何が神の意思なのか、そしてそれを探してそれに応えていく、この姿勢を常に忘れてはならないと思います。』