この日の第一朗読「コヘレトの言葉(1・2,2・21-23)」では、現実世界の空しさが語られます。
たしかに、私たちの生きている現実は、理不尽なことがたくさんあります。
でもそう感じてしまうのは、神に心が向き合っていないということなのかもしれません。
この日の湯澤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音はルカだけが書き残している部分です。ある意味でルカのセンスというか、財産的なものに厳しい見方をするルカ、福音を書いた人の性格がしないでもないです。ある人がやって来て、財産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと頼んだのです。この当時の宗教的指導者は、こういう問題を取り上げて調定をしたり裁いたりしていましたが、キリストはそれをきっかけに別な話を始めたのだと思います。一般的にすべての人に向かって、どんな貪欲にも注意を払いなさいと。ですから最初の人は貪欲な人かなと思うのですが、そうではないと思います。おそらく遺産相続の時に不平等を感じて、何とかして欲しいと言ったんでしょう。こういう理不尽なことは良くあることです。普通であれば正しいことをしていれば、良い報いがある。昔から良いことをしていれば天国にいけると。悪いことをしていれば地獄にいくと。普通はそう考えますね。実際はそうでないことの方が多いですね。
今日の第一朗読は、旧約聖書のコヘレトの言葉、昔は伝道の書と言われていました。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これは空しく大いに不幸なことだ。」せっかく努力したのにそれを自分のものに出来ない、努力が無駄になる。全然努力しない人が良い思いをする。それはおかしいことではないかということですね。普通だったら、がんばったら良いことがおこる。そうとは限らないのが人間の世界ですね。
分かりやすい例ですが旧約聖書に、カインとアベルの話があります。カインとアベルの兄弟がいて、二人が神様に捧げ物をします。アベルは牧畜をする人だったので、一番良い羊を神様に捧げます。カインは農民だったので農作物を捧げました。両方とも素晴らしいものを捧げたのですが、神様はアベルの捧げ物を受けて、カインの物は受け入れなかった。カインは怒ったのです。
こういうことは良くあります。同じ人間に生まれながら、非常に頭の良い人とか、イケメンの人とかいますね。そうじゃない人はあまり良いことがないですね。頭の悪い人はどれだけ努力しても勉強は出来ないし、イケメンでない人はどんなにもてようと思ってもモテないですね。なんで神様はこんな理不尽なことを…。私の中学の同級生にすごく頭の良い人がいました。高校も男子校でいっしょでした。いつも遊んでいるのですが、成績はトップでした。なぜ勉強をしないのにそんなに出来るのか聞いたことがありました。一回授業をきけば全部分かるよと言われました。そんな馬鹿なと思いました。でもその後、東大の医学部に入りました。こっちはきゅうきゅうとして試験勉強し、やっと大学に入れたのに。頭の良い人は勉強しないのに良い大学に入り、良い職業を得て良い生活をするのですが、そうでない人はどんなに努力しても駄目。カインとアベルみたいなものですね。
どうやら人間の社会は、良いことをすれば良い報いがあるだけではないらしい。コヘレトは考えたのですね。反知恵文学と言います。頑張りましょう。神様は必ず報いをくださいますから。これを知恵文学といいます。知恵の書や格言のこと。コヘレトなどの反知恵文学は、どんなに努力しても良い報いがあるとは限らない。だったらどうしようかという問いかけですね。カインとアベルの物語に戻りますと、神様は答えを出すのです。もし悪いことしていなかったら神様の方をずっと見ていれば良い。もしそのときに嫉妬などして神様から離れると罪を犯すかもしれない。実際にカインは弟を殺してしまったわけですね。
カインとアベルの話は簡単にお話しがなされていますが、コヘレトもそうですね、神様の摂理、神様の意思は分からないものです。だから悪いことをしても栄える人はいますし、良いことをしても不幸になる人はいる。でも、神様の意思、思いは分からない、結果では分からない。最終的には神様の意思、心に従って生きようではないかとコヘレトは結論を出します。そのように考えると今日の第二朗読も似たようなことが書いてありますね。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの教会への手紙3章1、2節)キリストの話もそういうふうにしてみると、なんとなく分かるような気がします。
確かに私たちはこの世の中で生きなければならない。その中で何と理不尽なことがある。
努力しても報われないことがあるし、変だなということがたくさんあるかもしれない。
でも大切なことは、そういう中で神様は私にどういうことを望んでおられるのか、探すこと。それに応えて生きること。私たちは日常生活でどうしても表面的な人間的なものに心が囚われてしまって、一番大事なことを忘れてしまっているかもしれない。キリストは言うわけですね。弟子たちに求めたものは何か。神様の意思を知ってそれに応えること。そのように考えると今日のこの話も何となく分かってくるのでは。私たちが最終的に大切にしなければならないことも分かってくるのではないかと思います。』