8月15日(木)18時から、勝谷司教と司祭8名の共同司式により平和祈願ミサが行われました。ミサには約200名の信徒が参加し、平和を願いお祈りを捧げました。ミサの後、小雨の降る中、大通り公園まで平和行進が行われました。
勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
【聖書朗読箇所】マタイ福音書 第5章1~10節
『私は司祭になった時、自分の考えていることを、相手に正しく伝えることの難しさを感じさせられたことがすぐにありました。初ミサで、そこで説教をしました。ミサが終わった後の懇親会の終わり頃、「神父さん、今日の説教はとても素晴らしかったです。」と、褒めてくださる人がおられました。神父さんがそうおっしゃたことは私の救いになりましたと。でも、私はそのように言ったことは覚えがないのです。全然違うことを言ったのですが、そのように聖霊が働き受けとめたのだろうと、そのときは黙っていました。
似たようなことがある教会でありました。(内容省略)
そのときに司祭の説教であっても、人は自分の聞きたいようにしか聞かないし、受け取れないのだと痛感しました。これは最近、司教になってからもいろいろな雑誌やカトリック新聞からも取材があるのですが、載せる前に必ずチェックをします。さすがに記者ですから、こちらの伝えたいことをかなり正確にとらえているのですが、それでも微妙なニュアンスが違うことで、訂正を行うことが必ずあります。ここで言いたいのは、人々はいろんな情報があるとしても、自分が受け止りたいようにフィルターにかけて、その情報を受け取っているということです。
そして、その問題は現代社会においてはより深刻になっています。私たちの出会う情報量が極めて多いわけですし、それが自分にとって正しい情報を選び出すことが非常に難しくなっています。今、ネットの世界では多くの専門家が指摘しているように、特に保守的な考え方をする人とリベラルな考え方をする人たちは、ホームページなり自分がアクセスする情報は、自分の思いを満足させる、そういう情報に偏っている。どんどんそれが偏っていく結果、あのテロリストのような過激な思想を持つにまで至る。自分でその情報を選んで受け取ろうとしているわけではなくて、自分の中にはそういう思想性がいつか選ぶ情報を自分の中でより分けて、そしてどんどん偏った世界にいく傾向にある。これは私たちが陥りやすい現代の大きな誘惑であり罠だと思います。
しかし、同時に私たちがそのような傾向を持っているのとは別に、私たちに敢えて誤った考え方をするように操作させる情報もあります。偏った情報で一方の意見や情報しか流さない、あるいは今、世界中で問題になっているフェイクニュース。わざと誤った情報を流して印象を操作する。そのようなことが溢れている中で 私たちは正しい情報を受け散るということを意識的にチェックすることをしなければ、どんどんそのようなものに流され、悪い言い方をするならば、洗脳されている。そういう危険性をある社会に生きていると言わざるを得ないと思います。
最近、日本の司教団はハンセン病患者の人たちに、あるいは亡くなられた元患者の家族に対して謝罪声明を出しました。これは久しぶりに全司教が一致して出す司教団声明です。
ちょうどそれが、あのハンセン病患者の家族に政府が控訴を断念した、判決確定と重なったのですが、それはたまたまだったのです。その半年以上前から謝罪声明を出さなければならないということで、社会司教委員会で原案を練り、何回も委員や司教の中でやりとりが行われていました。
ここで非常に難しかったのは、どうして謝罪する必要があるのかという意見です。すなわち、日本のカトリック教会はハンセン病患者のために献身的に努力してきました。いろいろな施設を作り、患者の人たちがここは地上の天国だと思えるような世界を作りたいと、本当に生涯かけて献身的に奉仕した方々もおられました。そういう人たちの行為が間違っていたとか、それらを無にするような、そういう謝罪声明であってはならない、いろんな方面から出されていました。しかし、私たちが良かれと思ってやっていたことが、結果としてあの政府の隔離政策と極めて深刻な人権侵害といわれるものを見過ごしてきたことになるのです。それをどのように謝罪声明に入れるのか、非常に実は苦労しました。
出された文言の中で一点だけお話します。謝罪声明は「わたしたちカトリック教会は」
ではなく、「私たちカトリック司教団は」ということで主語はすべて、謝罪する主語はすべて司教団としました。教会の指導者である司教団が間違っていた。しかし、その中で形式的に働いておられた人とたちは、その政府の国策に結果的に協力してしまった責任を負わせるものではない。また、負わせることは出来ない。その背景は当時の社会の常識です。 あのハンセン病患者の人たちは隔離されてしまう。当然だということがだれも疑問に感じず、その政府の政策にすべての国民が協力していたわけです。何もそこに疑問を感じていなかった。確かにぞ隔離政策は必要ないという専門家の意見やカトリック教会の中でもそのような人たちがいました。それはごくごく少数でした。あの時代の流れ、雰囲気の中にあって、それに異を唱えるなどということは発想すら起こってこないような状況でした。しかし、これはハンセン病に対する私たちが誤った取り組みをしていたことに限らず、同じことが戦前の雰囲気と言えますし、そして今日本の社会を包み込んでいる空気がいつのまにか、法律などでそういうことが駄目だと言うのではなく、国の空気全体がそうでなければならない。そこから外れた考えを知るものは攻撃され排斥されていく。そういうような得たいのしれない空気のようなものが出来上がってきているのではないかと危険性を感じています。そして、これこそがむしろ明白なおかしな法律だとか、おかしな政策だとかと糾弾するよりも、いつのまのか私たちの足下から私たちの心を食い尽くそうとする、恐ろしいウイルスの存在だと思います。
そして、現代社会はそのようなものに満ちているのです。危機的状況、戦争とかあるいはそれに至るような私たちの自由が制限されるような、弾圧されるような社会は突然やってくるようなわけではありません。知らないうちに、いつのまにかそうなっていたというのが戦前や日本に限らずドイツもそうでした。民主的な社会だと思い込んでいた、そのしくみの中できちんと営まれていたと思った社会が、まったく違うものに変わってしまっていた。私たちは経験しているわけです。ですから私たちは今、それを見極めることの重要性。それが問われているのだと思います。
2016年にバチカンで行われた非暴力と正義と平和の会議において、先日シスター弘田も来て南スーダンの司教の話をしていました。非常に印象的な話でした。南スーダンで二つの勢力が対立し内線状態だったとき、唯一、双方の意見を聞くことが出来るのは、信頼されていた司教でした。どうしたら双方の仲介が出来るのですかという質問に対して、非常に抽象的に「愛する。」と答えられたのです。愛するのは分かるが具体的にはといろいろ言ってましたが、特に印象的だったのは、敵対する者に対するリスペクト、相手に対する尊敬の念がなければ絶対に和解というものは成立しない。そして、相手を尊敬、尊重するという態度とともに、現れる態度は聞くことです。相手の意見は自分とは違う、異なる、まったく異なる正反対の価値観を持っていたとしても、まず聞いて受け止める。それは時間がかかるけれど徹底することによって、和解の糸口が見えてくるのだと。それが具体的に政治的レベルの愛することの意味だと、そうおっしゃっていたのが印象的でした。果たして今、日本が抱えている様々な多くの問題の中で、特に敵対する考え方や自分たちと相いれない人たちに対して 相手をリスペクトして主張に耳を傾けることから和解をしようとする努力をなされているのか、これが非常に疑問なところであります。
実は、昨日、今日の日付(8月15日)で「韓国と日本の和解に向けての会長談話」を正義と平和協議会会長のメッセージをとして日本語と韓国後で出しました。今回は背景となる解説が非常に多く7ページにもなりました。その締めくくりに引用した祈りが、今日の皆さんのしおりの中にある「第52回『世界広報の日』の教皇メッセージより」というものです。これは昨年5月の世界広報の日に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを題材にしながら教皇様が祈りとして載せられていたものです。
これを祈りとして、最後に皆さんと読んで、終わりたいと思います。
『主よ
わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
わたしたちの判断から毒を取り除き、兄弟姉妹として
他の人のことを話せるよう助けてください。
あなたは誠実で信頼できるかたです。
わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
騒音のあるところで、耳を傾け、 混乱のあるところで、調和を促し、
あいまいさには、明確さを、
排斥には、分かち合いを、
扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
深みのないところに、真の問いかけをし、
先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
敵意のあるところに、敬意を、
嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
アーメン。』
(日韓政府関係の和解に向けて 8.15「日本カトリック正義と平和協議会 会長」
談話より)』