2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。