「狭い戸口から入るように努めなさい」と、わたしたちは神の意志に適う在り方を求められています。
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『有名な「狭い戸口から入るように努めなさい」という今日のみことばです。一方で、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と寛大なみことばがあるわけですが、ここでは救いがないような非常に厳しいみことばになっているわけです。ただ、このことばが、どういう状況のなかで発せられたかということは重要なことです。最初の箇所にあるように、「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」ということで、この旅の先には困難が待ち受けているわけですが、力強くそこに向かっていたのです。そのような状況のなかで、イエスは受難の予告をしています。同時にそれに伴って、弟子はどう在ったらよいのか、ということを教え始めるわけです。
キリストは、「自分の十字架を担って従うように」、また、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言い、キリスト自身の在り方と弟子たちの在り方が重なって来るわけです。つまり弟子たちに自分と同じような在り方を求めて、そういう状況のなかで、このことばが使われているということです。
そして、入れない者に向かって言うことばは、すごく重要なことばですが、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この「不義を行う」というのは「正しくない」という意味になります。”正しい”在り方というのは、道徳的な在り方だとか、立派であるとか、そういうことではなくて、弟子の在り方、つまり神の意志に沿っているかということです。
別なところでキリストは、自分たちのグループの条件として、「神の意志を聞いてそれを行う」というように言っています。また全く話は違うところですが、この福音の持っている厳しさも同時に語っているわけです。
キリスト自身が福音であるわけですが、それを前にした時に誰でも、聖母マリアでさえも選択が迫られる、曖昧にしたままではいられない、「神を受け入れるか、受け入れないか」ということを求められています。
キリストに従う者たちは、神の意志を知ってそれを行う、そこに「正しさ」というものがあるわけです。そこには同時に「狭い」という意味があります。決して救いを制限するとかそういう意味ではありません。このように、キリストに従う者は、「狭い戸口」から入るわけですが、その条件は「神の意志に沿った生き方をしているか」ということです。
洗礼を受ける者は神からこのように言われます。「わたしの愛する者、心に適う者」と。
キリストが言われたように、私たちも一人一人、全能の父からそう言われていたのです。そう言われているとしたならば、この全能の父の意志に適う在り方をしていかなければならない。それがこの「正しさ」ということです。
私たちは、このキリストが求めていることを常に忘れてはならない、それが私たちのアイデンティティだからです。そういう意味で、私たちはキリストの言う「正しさ」そういう在り方を求めていかなければなりません。』