この日はチャリティバザー「かてどらる祭」が行われました。
主日ミサは英語ミサと合同で行われ、湯澤神父様とレイ神父様が司式されました。
福音朗読とお説教は、両神父様がそれぞれ日本語と英語で交互に行いました。
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『いろいろなたとえが出てきます。
まず食事に招かれたこの食事。婚宴の宴会、それから昼食、夕食の会。どれも食事ですが、いわゆる食事と言うのと、世の終わりの完成された交わり、キリストもその結婚式の宴会にたとえて言うように、それも食事、宴会。ふたつのこの世の普通の食事とこの世の終わりの完成された食事、宴会、天の国です。それがふたつ話題にされているわけですね。 それと同時にもう一つは、普通、昼食や夕食会を催すときに、友人とか兄弟とか親しい人を呼ぶわけで、まったく知らない恵まれない人、貧しい人を呼ぶことはまずない、常識的にない。そういう人ばっかり呼んだら、いわゆる食事にはならない。
これも二つの意味があります。私たちが普通に常識的に宴会や食事をするとき、それは普通の常識的な食事で、それは礼儀の世界です。挨拶をしたら挨拶を返させる。何か贈ったら似たような物を贈り返す。それが礼儀の世界ですが、もう一つはそれが出来ない。食事の世界ですね。この施すときに、お返しが出来ない。これは別な関係、恵みの関係です。親しい人と食事をする、これは日常の礼儀の世界ですが。
もう一つは恵みの世界。いろいろな時も、恵まれる時も、そこには何をお返ししても匹敵するような お返しが出来ないから。私たちはこの二つの世界に常に住んでいるということです。例えば、善きサマリア人のたとえに出てきますが、隣人を自分と同じように愛するという常識の世界に、しかしもう一つは、この怪我人を助ける生活。これは恩恵の世界です。私たちはこの両方の次元を持っていることを忘れてはならないと思います。また、その識別、どちらの世界に立つか、それも知っているはずです。
そういう恩恵の世界に自分が立たされたとき、相応しくあるべきでしょうし、そうでないときには常識的に、相応しくあるべきでしょう。その識別と同時に、その相応しさを常に相応しくなることが出来るようにしていかなければならないと思います。』
ミサ後に行われたバザーは、お天気にも恵まれたくさんの人で賑わいました。
「聖園こどもの家」のお子様たちと先生、ご父兄の皆さまをはじめ、外国人信徒のご家族連れの方々も多数訪れ、楽しんでおられたようです。