上杉昌弘神父様が「あなたは誰に信仰をつたえますか」をテーマに講話をされ、教区の家庭の祈りキャンペーンと祈りの小冊子編集を切り口に、松前のキリシタン弾圧や来月の福音宣教特別月間にも触れ、この私にもできることを主イエス、聖霊に委ねようと力強く話されました。
上杉神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ルカによる福音 14章25-33節】
『「父・母、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうも、これを憎まないなら私の弟子ではあり得ない。」この言葉を皆さん、どのようにお聴きになりましたか。まず、ミサの中で語られる主イエスの言葉は、喜んで聴ける時に、多分、今日のように素直には聴けないときも、私たちの生きる糧だと言われています。今の私に必要なことをご存じで、その私に投げかけられている言葉です。だから、「福音」、「グッドニュース」と、昔から良い知らせと言われています。
ミサの派遣の祝福の度に、私たちは「元いた生活の場」へと遣わされています。ミサの名をご存じでしょう。ラテン語で一番最後に「行きましょう」と今、訳されていますが、「Ite, missa est.」(イッテ、ミッサ、エッサ) で終わっていました。だから「ミサ」だと言われていました。それは「行きなさい」、「私は遣わす」「行け」という意味でしょう。ミサの後、家であったり、職場であったり、ともかく自分の場所へ帰っていきますが、イエスに従って行こうと思うならば、帰るところは実は家ではなく、自分の安住の馴染んでいる場所でもない。先週の北見紋別教会に集まってくるベトナム人実習生のことを思い返します。日本人が7、8人の小さな教会。日本人たちはこの2、3年、急に元気が出てきました。それは20代前後の若いベトナム人たちが本当に喜び勇んで教会に来るからです。共同祈願も、主の祈りも、日本人たちが一生懸命、ベトナム語で唱和しようと覚えています。切れ目のないように。ちょっと今まねしようと思って。♬…メロディのついたきれいな祈りです。
ある日曜日、ミサが始まってもベトナム人たちが来ません。だんだん仕事を習得して、職場が日曜日も働けと言っているんだろうと思っていたところ、途中から作業服のまま 6、7人が来ました。ミサが終わると「あぁー、ミサに来れて良かった!。うれしい!。」と言ってまた、仕事に帰って行ったんです。このことを思い出すと、私たちが帰るのは自分の住処ではない。むしろこのイエスの食卓、ミサに帰って来て、ここから出発するのかと思います。イエス様にこの一週間を報告し、聞いてもらって、労苦やすさんだ日々の思い、辛いあるいは明らかな逆境、苦しさの中にも、私たちのそうした十字架をともに担ってくれていたことに気づいて、感謝するために。そして新たな力をいただいて、また派遣されます。主の食卓で慰められ、新しい一週間へと遣わされて行きます。行きなさい。しかし、あなた一人ではないよ。私があなたの内に一緒にいるから。いや、あなたが苦しいと思うその前に、私が先にあなたの手を引いて歩いていくから付いてきなさい、と言われます。
ミサによって受洗、あるいは堅信の時にいただいた使命、ミッション。ミッションも 「ミッサ」からくる言葉です。この私が主キリストのからだとなって、人々の良き隣人となるように遣わされていきます。使命、守りではなく新しく晴れやかな、ときには晴れがましいとさえ感じられるものへと、私たち自身が「キリストの御からだ、アーメン。」その祈りによって聖変化されていきます。主イエスと出会うことになれる、そうした新しい希望が、穏やかな優しい微笑みとなり、言葉でもなく話でもなく、その声は聞こえないけれども、必ず伝わっていくでしょう。
私たちは日本の中で1000人に3人といない、カトリック信者です。他の人に先んじて呼ばれたのは自分の知恵と力に頼らず、この弱く貧弱な私たちが、神が心を惹かれて愛された。そのことを信じ、そして伝えるためです。神はこのような小さな者が祝福の源となるように召され、自分も神に捧げることが出来るようにしてくださいました。パンと葡萄酒にこの私たちは自分自身をお捧げします。私が全部行う、私が愛し私が信仰を伝えるのではない。主が働いてくださっていることを常に信頼して、平和の道具としてお使いください。奉納されるパンと葡萄酒に私たちを込めて捧げましょう。
ここで終われば良い説教ですね……。
でも、今日の福音に触れていないので、聞きづらい時も、それがまさに福音なのだということを、ちょっと考えてみたいと思います。福音を聴いた後、私たちは「キリストに賛美」と応えました。それが心から言えるために、もう少し塾講していきたいと思います。 身内や自分を憎め。そう言われてちょっと賛成は出来ません。保留赦したい。どういう意味でしょか。そう戸惑いを感じて聴いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は今日の福音の説教を準備していて、不平を言いました。福音の言葉には、時々今日のような「えっ」という言葉とか、どう考えたら良いのかという言葉があります。こういう時にこそ、信頼や信仰が試されているように思います。私もそうです。
み言葉はイエスのほかのすべての言葉から、全体的に思い巡らさないと真意が分からないときがある。マリアも良く思い巡らしていました。「婦人よ。私となんの関わりがあるのか。」とか、母マリアがそこにいることを知っていながら、「私の母とはだれか。」などの言葉をマリア様も聴くわけです。私たちにとって、合点のいかない言葉に接した時も、イエス様に背を向けるのではなく、一歩前に出て「主よ、おっしゃってください。何を言われているのですか。」と、虚心坦懐にたずねてみたいと思います。
今日のみ言葉を私はこういうふうに考えました。イエス様は大勢が集まる今日の使徒職大会のミサ。しかも受け継いだ信仰を喜んで伝えましょう。それをテーマにしているのに、今日の福音はちょっと受け入れづらい言葉ではないでしょうか。確か「十戒」では父、母を敬いなさいとありますし、自分のように人を愛せと言われてもいるので、父、母、家族、自分を憎まなくても良いのではないでしょうか。極端に聞こえます。もう少し聞きやすく柔らかな表現であっても良いと思います。
たてつきました。そのとき、主をいさめている自分に気づいたのです。同時に、ペテロに対するイエス様の言葉。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことは思わず、人のことを考えている。」その言葉を思いだしました。それで謙虚にもう一度、注解書を紐解いて、イエスの言葉は「セム語族の特徴をもった言葉」です。神と富とに仕えることは出来ない。二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、云々。そういう言葉ではある意味で、普通だったら日本人は「お父さんとお母さんどっちが好き?」と子供に聞くことがありますね。子供は困った顔をしてすぐには言えない。普通そう聞くときにはヘブライ語では「お父さんとお母さんどっちを愛す?どっちを憎む?」と聞くのかもしれないと思いました。今日の「聖書と典礼」の脚注には、「より少なく愛すこと」と訳が書かれてありました。比較級が乏しく、そうした婉曲な言い回しなしに、白黒をはっきりとさせる表現なのかもしれません。神への愛と人への愛、どちらを先におこすべきかをキリストは今日尋ねたのでしょう。
福音では、ガリラヤで多くの人がイエスについてきて、恵み深い言葉や奇跡のしるしを求めてついてきている場面です。神からのいわば御利益を求めて、それぞれが勝手な期待を描いてついてきていますが、イエスは彼らに対してその自分本位の思惑から神のみ心に求めるように転じること。神が与えたメシアである主キリストを信じ、その弟子となって従っていくように招く場面です。主イエスの弟子とは、十字架のうちに、友のために命を与えるほど大きな愛はない。それを行ってください、いや、神の愛を目撃し証しするものです。
主は今日、皆さんに対し札幌地区9千人の中の選ばれた8百人。皆さんに最後まで従っていきなさい。私の死を見届けそこに愛を見いだし、復活の勝利を証しする弟子を必要とされています。イエスに興味をもって、ついてきた大勢の人へのチャレンジ、挑戦でもあります。誰を第一に愛すべきなのか、すなわち私たちにとって、最も大切で後回しにしてはいけないこととは何か。それを今日、問いかけられています。
家族や身内を優先するのは自然の感情ですが、愛についてのキリストの言葉をもう一度思い起こして考えてみます。自分を愛してくれた人を愛したからといって何の良いことがあろうか。また、「私が愛を行う隣人とはだれのことですか」とイエスに問う学者に話された善きサマリア人のたとえ。誰がこの傷ついた方の隣人となったか。たとえ一番愛したい家族や自分であっても、私たちはその人の寿命を延ばすことは出来ない。真の幸せを望んでも、私が与えることが出来ない。それを謙虚に認めるならば、まず私の心が離れないでいる人を神に委ねることが大切であることを知ります。委ねて、その人の真の隣人となることを願っていきたい。あなたが愛するのに必要なものを与えられる神に立ちかえり、必要なことをご存じの主に求めなさいと言われていると思います。
憎しみではなく、憎む。すなわち重要で優先すべきことは何であるかを知り、委ねること。ひょっとしたら私たちの愛に潜む執着や自分の幸いを優先しているならば、それに気づいて清め、そこから離れて第一に尊とむべきものを求めるようにと、今日もはっきり話してくださいました。愛する方を主と神様に任せよう。そして、あなたは私についてきなさい。私たちを今日、弟子として呼んでくれていることを受け入れ、感謝したいと思います。やはり、キリストに賛美、福音ではないでしょうか。
今回のテーマ。信仰を伝えること。これは教勢の拡大ではありません。何よりも私は父の「み旨」を果たすために来た。ひとり残らず神の子として生まれたものを神のもとにお連れすることだ。イエスが行っているその「み旨」を今日私たちが求めるならば、私に出来ることを差し出された時、「アーメン。そうでありますように。」と、喜んで祈り応えていきたいと思います。』