この日は聖ミカエルの霊名記念日を迎えられた森田神父様の司式によるミサでした。
ミサの中で、森田神父様へ霊名のお祝いをお贈りしました。
森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音(ルカ16・19-31)は「金持ちとラザロ」のお話です。
特に金持ちが悪いことをしたわけではなく、門前にいるラザロを顧みなかったというのがここで問題になったことだと思います。死後の世界では、金持ちと貧しい者の立場が逆転する、そういうことが今日の福音の中ではっきりと書かれているわけです。私たちはこのお話を読んでみながら考えていきたいと思います。
今の日本はだんたんと貧富の差が拡大し、日本にいながらも自分が豊かだと実感がない人がたくさんいるのではないかと思います。それでもまだ世界的にみると恵まれている国ではないかと思います。
私たちも可能な限り今日の話を心に留めて考えていきたいと思います。今大変な思いをしている人たち、自分のことで精いっぱいで人のことを思いやる余裕がない人もいると思いますが、余裕のある人、かなり余裕のある人は、今日の話を心に留めていきたいと思います。そして、貧富の差ばかりでなく、いろいろなことが、例えば、寂しさとか、あるいは自分を認めてもらっていない人、居場所がない人、いろいろな辛い思いをしている人も、たくさんいるのではないでしょうか。
私たちは、大きなことを出来るわけではありませんが、小さなこと、自分の境遇で今できることから始めていきたいし、それを実践している方はたくさんいらっしゃると思います。
教皇様は、移民に対することをお話されています。トランプ大統領の移民を排除するような発言に対して、その発言には、国の治安を守るという理由もあると思いますが、私たちはどうでしょうか?
たくさんの移民がやってくるとなるといろいろ心配はあると思いますが、移民にならざるをえない人たちと苦しみを共にするという気持ちがなければ受け入れることは簡単ではないでしょう。
すでに治安が乱れ崩壊している国の人々を苦しみを一緒に共にしようと迎え入れても、迎え入れた後に何もしないケースが非常に多いようです。迎え入れたはいいけれど、仕事がない、貧富の格差が大きくなり、不安も大きくなります。
しかし、仕事を分け合い、受け入れる側の生活レベルが多少低下しても、皆に仕事が行き渡るように、それでもよい、という気持ちがあれば、治安に関しても悪くならないのではないでしょうか。
私たちは、このような恵まれた時代に生活できているという神様から託された恵みを考えていきたいと思います。先週の福音にもあったように、自分に任されたものに対して忠実でなければ、本当に価値あるものを天国で神様は任せてくれない、とイエス様はおっしゃられました。
私たちは、今こうして平和で豊かな国に生まれました。しかし、今そうでない人たちもいる中で、私たちはその託された恵まれた環境をどう使っていくのか、ということは大事なことかと思います。
現代の国際社会の在り方は、友好関係以前に経済中心で廻っています。お互いに経済的なメリットが重視され、一方的に助けるということが成り立たないのではないかとさえ思います。
しかし、聖書のことばの中に未来があることもあると思います。無償の愛を与えるという選択肢が、知らず知らずのうちに将来素晴らしい希望を呼び寄せていることに繋がることもあるのかもしれません。
私たちは一人一人自分に与えられた立場に立って、社会の価値観だけではなくて、自分の価値観から行動していかなければなりません。
今日の福音にあるように、門前に困っている人がいるのに放置していた、このような状況が世界にあるわけです。それが今後どうなるかということをイエス様は示されています。
環境の問題についても教皇様は発言されています。
とうとう世界中の子供たちが、立ち上がったわけです。
大人にとっては、あと20~30年我慢すればいいのですが、子供は崩壊しつつある世界の中で生きていかなければならない。特に子供は、大人は何を残してくれたんだろうと感じると思います。
スウェーデンの女の子が顔を紅潮させて、怒りを抑えながら演説していました。本来はとてもやさしい子ではないかと思います。地球に対する愛、仲間の子供たちに対する愛、白熊や動物たちへの愛、どんどん崩れていくのを見た時に怒らずにはいられない、やさしい女の子が変わってしまったのかなと、本来大人がやならなければならないことを誰もしなかった、子供たちも思い始めたと、そのように感じました。
本当に子どもを愛する人たちは、環境問題には無関心ではいられないと思います。
環境にやさしい生活をすることが結果的に私たちの体と心を守るようなことに繋がっていくと思います。
環境を大事にしている農家が作るものを優先的に取り入れたり、環境問題に取り組んでいる団体に加盟するとか、応援するとか、そのうように出来ることはいろいろあると思います。
この文明化された時代から後戻りは出来るのか、それは難しいことですが、文明を使って解決できることがあるのかもしれませんし、あるいは生活を簡素化することによってできることもあるのかもしれませんし、目標に到達できるのかどうか分かりませんが、一生懸命にやっていければうれしいと思います。
今は諦めたかのように流れが出来てしまっていますけれど、もう一度立ち止まって、苦しんでいる人を顧みるとか、あるいは環境に関わることの中に、私たち自身の答えがあるのかもしれません。
マタイ25章の「最後の審判」のイエス様のことばの中に、「あたなは貧しい人に食べ物を与えましたか、乾いている人に飲ませましたか、裸の人に着せましたか」という言葉があります。そして、「これらの最も小さい者にしたことは、わたしにしたことです」とおっしゃいました。恐らく私たちはこのことばを実践することによって、自分自身が抱えている問題に対する答えを得ると思います。このような人たちとの関わりの中でいろいろなものが見えてくる、それを振り返ってみるとき大きなヒントがたくさんあったりする。きっとそういう人との関わりの中に、神様の答えがたくさん隠れていると、そのように見てもよいと思います。
私たちは自分自身らしく生きる、自己実現という言葉がありますが、それは自分を中心に考えるのではなく、自分を捨てて、自分よりも人を愛する、最も小さい人を愛する、ということの中に、実は自己実現が隠れている、そこに今まで気付かなかった自分を発見して、本当に素晴らしい生き方へと召されていく、そのようなことが往々にしてあると思います。
今日は、金持ちと貧しいラザロの話を通して、今実際に世界で起こっている状況をこのままではいけないと神様はおっしゃっています。私たちにできる範囲でかまわないので、そういう人に心を配っていく、子供たちのために環境に心を配っていく、その中に実は衰退していく社会に対する大きな答えがあるのかもしれないし、それは将来に分かることなのかもしれません。そして、自分自身を発見し、自分自身の心を開放するいろいろなヒントがそこに隠れているのかもしれません。そのように考えて、今日の福音を大切にしていきたいと思います。』