2019年9月15日日曜日

年間第24主日「敬老の祝福」

『見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り…… (ルカ15・5-6より)』

今日の聖書のテーマは「罪のゆるし」です。

ミサの中で、明日の「敬老の日」にあわせて、佐藤神父様より「敬老の祝福」をいただきました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書のテーマは「神は罪をゆるすお方」だということです。 それだけではなく、ご自分から離れていった者をも探して呼び戻してくださる方でもあります。

神が望まれることは何かというと、罪びとが生き方を変え、神に立ち帰り神に生きることです。 神は罪びとの滅びを望みません。 神は生きることを望みます。 見失った一匹というのは羊飼いが見失ったのではなく、羊飼いのもとから離れて行ったということです。 それを羊飼いは自ら捜しに行って正しい方向に導くのです。

ドラクメ銀貨を十枚持っている女のたとえが次に描かれています。 ドラクメ銀貨は1枚で一日の日当にあたる額だそうです。 十枚ということは10日分の日当にあたる額です。 決して多くありません。 そのうちの1枚を無くしたというのは、女が自ら無くしたのではなく、女から離れて行ったということです。 それを女は捜して見つけて自分のもとに置くのです。

今日の福音は短い部分が読まれました。 長い部分は省略されています。
省略された部分は3つ目のたとえで、おなじみの「放蕩息子」のたとえです。 羊やドラクメ銀貨と違って放蕩息子は人間ですから心の向きと言うものがよくわかります。 羊やドラクメ銀貨のたとえでは、神の側の目線だけが描かれています。 つまり、神はわたしたち罪びとを正しい生き方に導いてくださる。 そのようにいつも働きかけてくださるということです。

放蕩息子のたとえでは、父の視点だけではなく、息子の視点でも描かれています。 この父には兄と弟がいました。 本来遺産と言うものは亡くなってから相続されるものですが、その前に弟は自分の分をもらって父のもとを離れました。 この弟の考えでは父のもとで働くよりも自分の力で生きて行こうと考えています。 しかし、もらった財産も使い果たし、自分で働こうとある人のところで豚を飼う仕事にありつきました。 が、空腹は満たされませんでした。 ここで弟は「われに返って」言いました。 フランシスコ会訳だと「本心に立ちかえって言った」とあります。 自分の罪を認め、父のもとに帰って罪を告白して、雇人のひとりにしてくださいと言おう、と。 この弟は父のもとでの生活をすでに知っていました。 天の国の宴に相当することを知っていたということです。 だから記憶を呼び戻して立ちかえることができたわけです。

イエスが罪びとを招いて食事をともにしてくださるのは、罪びとがイエスの話を聞いて神に立ちかえったからです。 イエスの呼びかけを何度も聞いて、自分は罪深い人間ですからわたしの罪をゆるしてください、と心の向きを変えたからです。
わたしたちも最初から神の国を知っているわけではありません。
イエスのことばを聞いて少しずつ分かってくるものです。 神がわたしたちを正しい道に導いてくださると信頼するだけではなく、わたしたちが神の愛に気づいて神に立ちかえることも必要なのです。

ゆるしの秘跡というのは神との和解という側面と自分自身の生き方を深める秘跡という側面があります。 罪を告白し赦しをいただき痛悔の心をもってよりよく生きる決心をするのがゆるしの秘跡です。 ここで何が罪だったかとリストアップするよりも、何が自分の信仰生活の中で神から離れてしまうことだったか、あるいは神を忘れさせてしまうことだったかを思い起こすといいと思います。 主に立ちかえり、神に向かって生きる生き方の決意を新たにすることがゆるしの秘跡の大きな意味ですので、信仰を揺るがすものは何だったのかを見つめましょう。

パウロはイエス・キリストの呼びかけによって回心し、自らを罪深い者だと認め悔い改めて、キリストをあかしするものとなりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られました」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値します、と言っているとおりです。 わたしたちもイエスの呼びかけに耳を傾け、神に立ちかえる恵みを願いましょう。』