ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】
四旬節第1主日A年2023年2月26日 ウルバン神父 “人はパンだけで生きるのではない”
ヨルダン川沿いに一人の男の方が歩いている。ゆっくり、よろよろしながら歩いている。何かに酔っているみたい。歩く所をちゃんと見ているでしょうか。目をほとんど閉じて一歩、一歩を進んでいます。確かに酔っていますが、密かに顔の表情を見ると、言葉で言い表せない深い体験と喜びに酔っている。ちょっと前に先駆者ヨハネは、この方の上に天が開き、神の偉大さ、聖霊が鳩の姿で降りて来るのを見た。その時この方が天に手を上げ、体が震えて、心が喜びに踊るのを見た。‘この方だよ、神の聖なるものだよ’と感動した時、‘お名前は’と聞こうとしたが、その方はもう行ってしまった。目で見送ったが、ヨハネの思いからその方はもう離れませんでした。
イエスは、死海の近くにある荒れ野、ユダヤの砂漠に着いた。この荒野は恐ろしいほど寂しい所で、動物の鳴き声も、水の流れる音もない。たまに崖から転がる石の音しかありません。ところが、この砂漠こそは聖なる所で、神の出会いの所です。イエスは疲れて、どこかの岩に座っていた。もう夕方になって、やっと涼しい風が増えてきた。段々暗くなると、美しい星空も見えてきた。イエスはヨルダン川での深い体験を抱いて、賑やかな群衆を避けて、荒れ野の静けさの中、深い星空の下で父と共に居たかった。心の中に、唇の上には常に祈りが住んでいた。‘アバ、アバ、お父ちゃん、わがお父ちゃん、私に何をして欲しいでしょう。教えてください。あなたのために何でもします’。イエスの荒れ野の中の姿を見ると、歌の言葉が浮かんでくる。‘谷川の水を求めて喘ぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う’。目を閉じて、心の目を開くと、イエスは荒れ野の中で歩き回って、何日もさまよう姿を見て、心の叫びを聞いているのではないでしょうか。‘アバ、アバ、我が道、救いの道を示してください。望むとおりにします、道を示してください’。
朝になって、また夜になった。何日も過ぎた後、イエスは飢えた。朝の汁をなめて、迷ったイナゴを食べたかもしれませんが、今は酷く飢えた。その時を敵が狙っていた。‘この者は俺に最高に危ない人物です。うまく滅ぼそう’。人が神様に近づこうとすると、聖霊が助けるだけではなく、敵も狙って来る。優れたインテリのある敵。飢えているイエスの優しい心を知って、飢えで泣いている人の姿を見せた。‘神の子なら、この石をパンにしたら、どうだい。パンあれば、助かるよ。必ずついて来るぞ’。何日も妄想のように飢えている人を見ていた。本当に狡猾な誘惑でした。その時、主の目が開き、人が互いにパンを奪い合って、激しく争っているのを見た。その時イエスの目の前に道は開かれた。‘サタン、退け。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる’と。40日たった後、主は荒れ野から出て、確信をもって、道を歩き始めた。
私達も道を失って、荒野をさまよい、飢え渇いて歩む時もある。その時、望めば、私も、あなたも体験する。私は神の口から出る一つひとつの言葉によって生き、私は喜びに潤される。私達を愛している主は約束した。‘子よ、私について来る人はもう暗闇に歩まない、光の中に歩む’。
【聖書朗読箇所】
全能の神よ、
年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、
わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。
日々、キリストのいのちに生きることができますように。
集会祈願より
第1朗読 創世記 (創世記2章7-9,3章1-7節)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、
自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、
食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、
触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章12-19節)
(皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、
律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、
アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、
なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、
多くの人に豊かに注がれるのです。
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。
裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、
恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ4章1-11節)
(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。