松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ 松村神父】
人間は「言いたくないけど言わざるを得ない」ということで、他人から悪いレッテルを張られる事は時々あります。まわりまわって自分の噂を聞いたときに、その噂で胸を痛めることもあります。でも言い訳をしても「時すでに遅し」なんてことは皆さんにもあるでしょう。でもそんな時に、すぐに切り替え「言わせておけ!」と開き直ることで何とか自分を立たせているというのが現実かもしれません。でも本心は神様にしかわからないものです。しかし、もしその場でゆっくりと分かち合うことができれば、どれだけ良好な関係性が築けるのでしょう。また話を受ける側もどれだけ正確に聞いているでしょうか。情報量が多く、また早く流れるこの時代に、表面だけを捉えた情報に惑わされていないでしょうか。ニュースの情報にはフェイクが時にはあり、また一部の情報を切り抜いて核心としてしまう出来事もあります。同じように人のうわさもすべて正しいわけではありません。常に本当は何か?本質は何か?と問い直さなければなりません。その根拠を調べるのに途方もない時間を費やします。ですから、私は「まだ確信にたどり着いていない」と思うことにしています。「見ないで信じるものは幸い」というのは神様の事だけなのでしょう。
さて、そのような中で今日のメッセージは、第一朗読から見たいと思います。
シラ書で語られる言葉は私たちの胸をえぐるような言葉でした。それは神の知恵である“人の話をしっかりと聞いてから判断する”ということでしょう。私たちはどうしても“持論”“思い込み”が先行してしまいます。だからこそ聞くことの大切さがここに語られています。聞かない理由は何でしょう。自分には非がない。自分は正しいと思いこんでいるからではないでしょうか。またつまらない話であるとか、自分に正義があるからとも思っていないでしょうか。でもその正義は自分の正義ですか?神の正義ですか?そう問われると、途端に自信が無くなってしまいます。でも、今日の福音書ではそれを回避する方法が描かれています。
盲人と語られている人は、イエスにとってファリサイ派を指し、また信仰共同体の指導者を指す言葉として表されました。「だれでも、十分に修業を積めば、師のようになれる。」のです。でも人に仕えることは修行では学べません。センス(感覚)の問題です。努力の賜物ではありません。自分の胸に手を当てて「主よ哀れんでください」と罪びとのようでなければ、兄弟姉妹を慈しむ心は芽生えないでしょう。まず相手を中心に置くこと。自分を隅に追いやる事。この姿勢、このセンス(感覚)こそ、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石(マタイ 21:42)」にまで上げられるのです。そして私たちがどのように実践できるのかが問われています。「ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるもの(シラ27:4)」だから、自分の“目の中の丸太”の存在という根本を見つめる必要があります。表面だけ取り繕っても、ボロは出ます。他人を裁かず、身を低くすること。良い実を実らせるよう、内面も外面も統一させていこうという努力。これが私たちのイエスの弟子として向かうあり方なのでしょう。昨今騒音が多い中、表面の事をうのみにすることなく、穏やかに耳を澄ませると普段聞こえない音が聞こえてきます。それは神様の言葉なのかもしれません。
裁くことより、聖母マリアのように正しく聞いて思いめぐらし、聖ヨゼフのように陰ながら愛する者を支え仕える。これこそ私たち信仰者の感性なのでしょう。頑張りましょう!
【聖書朗読箇所】
恵み豊かな神よ、
ひとり子イエスは、
ことばと行いによってし、
永遠のいのちの道を示してくださいました。
ここに集められた一人ひとりに聖霊を注いでください、
きょう語られるみことばが、
わたしたちを導く光となりますように。
集会祈願より
第1朗読 シラ書 27章4~7節
ふるいを揺さぶると滓が残るように、
人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。
陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、
人間は論議によって試される。
樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、
心の思いは話を聞けば分かる。
話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
言葉こそ人を判断する試金石であるからだ
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章54~58節
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
この死ぬべきものが死なないものを着るとき、
次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
わたしたちの主イエス・キリストによって
わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば
自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、
あなたがたは知っているはずです。
福音朗読 ルカによる福音書 6章39~45節
イエスはまた、たとえを話された。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか。
二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師にまさるものではない。
しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、
『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、
どうして言えるだろうか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、
また、良い実を結ぶ悪い木はない。
木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。
茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、
悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」