2022年3月19日土曜日

3月20日 四旬節第3主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

“神様は罪を罰する神ではない”      ウルバン神父

ある時何人かの人がイエスの所へ走り寄って、興奮しながら伝えた:「大変だ。ガリラヤ人が神殿でいけにえを捧げた時、ピラトが軍を送って、彼らの血を流した。大騒ぎだった。神殿は汚されて血だらけになった」。主は何と答えたでしょうか。「そのガリラヤ人が皆よりも罪深い者だったからだと思うのか。消してそうではない」と。

イスラエル人は長い歴史の中で異邦人と乱れた民族に囲まれたので、イスラエルを守るために“神様は報いと罰を与える神だ”と厳しく教えられた。ですから、元気で幸せに生きる人は良い人で、神に愛されている人ですが、貧しくて、あらゆる不幸に出会う人は罪だらけな人、神に捨てられた人だと皆が思い込んでいた。ところがイエスは答えた:「決してそうではない」。

弟子達が主と共に旅をした時、道端に目の不自由な乞食が座っているのを見た時、イエスに聞いた。「誰が罪を犯したでしょうか。彼か、その親か」。「彼も親も、罪を犯した事はない。彼の生活の中に神の栄光が現れるために」とイエスは答えた。神様は決して罰する神ではない。主は喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いていた。愛する都エルサレムの滅びについて話した時に、イエスは泣いていた。私達の心の中に得と損、報いと罰の考えが隠れているのではないか。

ある日、小さいヘルマンちゃん、今はウルバンと呼ばれている子は、クリスマスにちょっと古いローラースケートのプレセントを頂いた。嬉しくて、台所の中で試そうとした時、母親は「ダメ。下に住んでいる人が怒る。ヘルマン、やめなさい」と怒ったが、ボウヤは止めなかった。突然テーブルの角にぶつかって、転んで、大きな声で叫んだ時、親は何と言ったでしょうか:「見て、もう神様は罰を与えた」。やはり、あの優しい神様は本当におっかない神様だと思って、神様を愛せなくて、恐れるようになった。

神様の事を知りたいと思えば、いつもイエスを見なければならない。それで今、イエスと共にエルサレムにあるべテスタの池へ行きましょう。その池の周りに多くの病人が横たわっていた。その中の一人はもう38年、水に入れてくれる人を待っていたが、誰もいなかった。彼は毎日癒される人を見ていながら絶望に沈んでいた。イエスはすぐその人のそばに行って、「お前は皆の中の一番ひどい罪人だから、人にも、神にも捨てられた。お前はもうだめだ」と言ったでしょうか。いえ。イエスは汚い所に座って、彼を撫でて、優しい目で見て抱きはじめられた。病人はイエスを知らなかったが、抱いてくれる人の顔を見た時、深い絶望は解けて、「僕はごみではない、僕はもう一人ではない」と、生まれて初めて愛されるように感じた。これは私達が信じるイエス、私たちが愛する神の姿です。

何十年前に、信者の5歳の女の子は入院しました。脳のがんで頭は次第に膨らんできた。私が子供を撫でながら祈った時、信者ではない母はいつも泣いていた。どうして神様がうちの子にこの痛みを許すでしょうか、と悩んでいた母心を慰める言葉はなかった。子供は亡くなりましたが、母は何年間も神様に近づきませんでした。ある時、洗礼を受けたことを私は聞いた。

母親は十字架につけられ、傷つけられたイエスを見つめながら、慰められて、心の怒りと痛みが次第に消えた後、洗礼を望んだ。弱い者であっても、愛されている事を知って、また平安に生きるようになった。やはり、神様は罰する神でなく、私を愛する神である。神に賛美。


【聖書朗読箇所】

全能の神、

いのちの源である神よ、

  わたしたちの心があなたから離れてしまうとき、

  あなたはひとり子イエスをとおしてわたしたちを呼び戻してくださいます。

  回心の道を歩むわたしたちに、

  あなたを賛美し、

  感謝する心を与えてください。

   集会祈願より



第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節


モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、 あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。


そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。

彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。


モーセは言った。

「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。

どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」


主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。

神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。

彼が、「はい」と答えると、


神が言われた。

「ここに近づいてはならない。

足から履物を脱ぎなさい。

あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」


神は続けて言われた。

「わたしはあなたの父の神である。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。


主は言われた。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、

追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、

その痛みを知った。


それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、

この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、

カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。


モーセは神に尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。

彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、

彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。

彼らに何と答えるべきでしょうか。」


神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、

また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。

『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。

あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が

わたしをあなたたちのもとに遣わされた。

これこそ、とこしえにわたしの名

これこそ、世々にわたしの呼び名。」




第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章1~6、10~12節


兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。

わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、


皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、


皆、同じ霊的な食物を食べ、


皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。

彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、

この岩こそキリストだったのです。


しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、

荒れ野で滅ぼされてしまいました。


これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。

彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。


彼らの中には不平を言う者がいたが、

あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。

不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。


これらのことは前例として彼らに起こったのです。

それが書き伝えられているのは、

時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。


だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい




福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節


ちょうどそのとき、何人かの人が来て、

ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。


イエスはお答えになった。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、

ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。


決してそうではない。

言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、

皆同じように滅びる。


また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、

エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、

罪深い者だったと思うのか。


決してそうではない。

言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、

皆同じように滅びる。」


そして、イエスは次のたとえを話された。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、

実を探しに来たが見つからなかった。


そこで、園丁に言った。

『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、

見つけたためしがない。

だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』


園丁は答えた。

『御主人様、今年もこのままにしておいてください。

木の周りを掘って、肥やしをやってみます。


そうすれば、来年は実がなるかもしれません。

もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」