松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ 松村神父】
いくつかの学校に宗教講師として回ったときに、複数の先生からこんな質問を受けた。「私たちは生徒にエリートになるよう教育してはいけませんか?」「生徒に幸せになるために、お金持ちになるよう努力してもらうことはダメなのでしょうか?」と。カトリックミッションを持つ学校の先生にとって、特に未洗者の先生にとっては、進学校となるよう努力をするよう指示されながらも、キリスト教の精神との間で板挟みになって、悩んでいるようだった。一方では「背に腹替えられないのでは?」と。あきらめる声も聞こえてきた。その時点でカトリックミッションはなくなるのであろう。でもきっとその意見は生徒の保護者も同じなのだろうと推測する。今日の福音書には「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と描かれていることに、躓く人が多くいることに気づかされる。そこで私は次のように応えている。「どんどんエリートを作ってください。どんどんお金持ちになるように教育してください。」と。これを聞くと「なんという神父だ!」とおしかりを受けるかもしれない。しかし、更に私は次のように付け加えることにしている。「世の中で勝利者とされるひとは、弱い人、貧しい人を助ける義務がついて来ます。自ら得た知恵と知識、財産や富は愛する者のために使うのであって、自分のために蓄えることを拒否し、手放し与えるということを必ず付け加えてください。」と。結局、棺桶にお金も知恵も入れることはできないのだから。この世のものはこの世にあるうちに使うためのものであり、愛する者のために惜しみなく与え尽くすことにカトリックミッションは意義をもち向かっているのである。しかし多くの人は持っている量を他人と比べ、勝った負けたで権力にしがみつこうとしている。そこで他者と争い、嫉妬と妬みに陥り、苦しみに巻き込まれ、いつも奪われることへの緊張と恐れにその身を渡しているが、実は手放したときに私たちはその呪縛から解き放たれ自由になるのであるが、人類にとってこのことは高い壁であろう。富そのものが悪なのではなく、富を持ってしまった人の心から悪が生じることが今日の大切なポイントなのではないか。かつて偶像崇拝していたものに対してモーセの十戒が与えられたように、富の偶像化は気をつけなければならない。大きな誘惑、甘い蜜だからである。
しかし解き放たれるためには愛する相手が必要であること、このことをイエスは金持ちの青年に伝えたかったのではないか。何よりもイエスがすべてから自ら解き放たれており、十字架に向けてご自身がもっているすべてを差し出したからにほかならない。イエスは愚かな金持ちの青年の前に立った時ですら、慈しみの眼差しで見て、愛そうとして神の知恵を惜しみなく示した。青年もこの優しいイエスに出会い、我に返り、受け止めることにつらさを感じ、イエスの前に立っていることができなくなった。
私の神学生時代の恩師は、「山で流れる小川のせせらぎを見なさい。わずかな水であるが清く美しく、そして素晴らしい美味さを感じる。しかし一度石などで川をせき止めてみなさい。途端に水はよどみ、溜まった水は飲めなくなり、生態系までも変わる。お金の流れと一緒なのだ!」と。清く正しく美しくという言葉が昭和時代に流行ったが、そのためには保つのではなく流し続けることに本来の意味を見出したい。
存分に冨を蓄えても構わない。でもそれを“無償で使う”ことが大前提になければ、金持ちの青年と同じように、落胆させられるのだろう。神の計画では、富も財産も、すべてのものは、それ自体が称えられるべきものではなく偶像であり、愛に仕えなければならないと教えるからである。針の穴とラクダの大小は、神の創造のわざが始まったときから、すでに決まっている法則。富と愛の関係も神の法則で決められている。常に神の愛、神の教えに優位性があることを忘れないようにしたい。
【聖書朗読箇所】
すべてにまさる知恵を与えてくださる神よ、
あなたのことばはいつの時代にも力強く働いています。
わたしたちの心を福音の光で照らし、
目先のものへの執着から解き放ってください。
集会祈願より
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第1朗読 知恵の書 7章7~11節
わたしは祈った。すると悟りが与えられ、
願うと、知恵の霊が訪れた。
わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、
知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。
どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。
知恵の前では金も砂粒にすぎず、
知恵と比べれば銀も泥に等しい。
わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、
光よりも知恵を選んだ。
知恵の輝きは消えることがないからだ。
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。
知恵の手の中には量り難い富がある。
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節
神の言葉は生きており、力を発揮し、
どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、
すべてのものが神の目には裸であり、
さらけ出されているのです。
この神に対して、
わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節
イエスが旅に出ようとされると、
ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
イエスは言われた。
「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。
神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』
という掟をあなたは知っているはずだ。」
すると彼は、
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものが一つある。
行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。
たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちを見回して言われた。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。
イエスは更に言葉を続けられた。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、
「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。
「人間にできることではないが、神にはできる。
神は何でもできるからだ。」