湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】
2021年9月19日 年間第25主日(マルコ、9章30-37節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回の「受難の予告と弟子の在り方についての教え」の第二回目に当たります。第一回目では、イエス様は、自分の考えや思いではなく、神様の思いを受け入れ、神様が与える自分自身の十字架をになう、キリストの在り様に倣うよう求めています。第二回目のケースは、第一回目の場合と異なり、弟子たちの口論から始まります。イエス様は受難の予告をしたために人目を避けて旅をしなければなりませんでした。他方、わけのわからない弟子たちは、質問するのも恐れ多くて尋ねる勇気もありませんでした。それでも、もし文字通り自分たちの先生が殺されるとしたら、だれが後継者になるのかと、言い争いを始めました。ですからイエス様に、何を言い争っていたのかと問われ、答えることができませんでした。
イエス様は、第一回目の話を、第二回目の話で更に説明しようとします。自分を捨て自分の十字架をになってイエス様に従う場合、自分で十字架を決めて自分勝手に従うわけではないということです。イエス様が父である神様の意志に沿って十字架を引き受けたように、弟子たちはそれを模範としなければならないと教えたのです。
イエス様は、具体的な例として幼子を示して、この幼子を受け入れるようにしなければならないと教えたのです。幼子というと可愛らしい、小さく、弱く、素直な存在と思いがちですが、そうでもありません。「泣く子と地頭とには勝てぬ」という諺があるように、逆に無視できない強力な力を持っています。説得したり、道理を尽くして話しても通用しない、頑強さです。幼子ですから、もちろん無視したり、力でねじ伏せたり、抹殺したり、極端な話、殺すことで黙らせることはできます。
イエス様は、この弱い小さい者が持っているような力とは何かについては、ここでははっきり話していません。しかし、それは第三番目の「受難の予告と弟子の在り方についての話」から、イエス様に十字架を背負わせた御父の願いではないかと推察することができます。イエス様はそれを自分の十字架として引き受けました。その父である神様の求めていることは、幼子の要求のように、交渉の余地がありません。私たちにあるのは、受け入れるのか、拒むのかの自由だけです。この自由は全き自由で、何ものにも犯すことのできないものです。自分で決めて答えるほかありません。だからこそ、イエス様は、父である神様の意向を受け入れることを求めているのです。つまり、御父の意志を受け止め、イエス様が十字架に生きたように、与えられた父である神様の意向を受け止め、その人に呼びかけられた使命を生きることです。あなたは、父である神様の意志をイエス様のように受け止め、生きられますか。この問いは、今のこの現実の状況の中にいる私たち一人ひとりに向けられています。自分に問いかけてみましょう。 湯澤民夫
【聖書朗読箇所】
豊かな恵みを注いでくださる神よ、
あなたは御ひとり子を、
世に救い主としてお与えになりました。
自分を低くして仕える者となられたキリストに、
わたしたちが、この集いをとおして
近づくことができますように。
集会祈願より
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第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節
「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、
律法に背くといって我々をとがめ、
教訓に反するといって非難するのだから。
それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。
暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために。
悪への忍耐ぶりを試みるために。
彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」
第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節
ねたみや利己心のあるところには、
混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、
更に、温和で、優しく、従順なものです。
憐れみと良い実に満ちています。
偏見はなく、偽善的でもありません。
義の実は、平和を実現する人たちによって、
平和のうちに蒔かれるのです。
何が原因で、
あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。
あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、
その原因ではありませんか。
あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
また、熱望しても手に入れることができず、
争ったり戦ったりします。
得られないのは、願い求めないからで、
願い求めても、与えられないのは、
自分の楽しみのために使おうと、
間違った動機で願い求めるからです。
福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。
しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
それは弟子たちに、
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。
殺されて三日の後に復活する」
と言っておられたからである。
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、
怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。
家に着いてから、イエスは弟子たちに、
「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
彼らは黙っていた。
途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、
すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、
抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、
わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、
わたしではなくて、
わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」