2021年9月11日土曜日

9月12日 年間第24主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

年間24主日 9月12日

インドのヴァルダマーナが始めたジャイナ教の寓話の中に「群盲象を評す」というお話があります。

その話は次のようなものです。

ある王の前に6人の盲人がいました。そこに一匹の象を連れてきて一人ひとりに触らせ感想を聞きました。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」この話の教訓の結論は、今日の福音が語りたいものとは少し違うのですが、ただ「メシア」と答えたペトロの信仰告白は、あくまでも自分の過去の知識や感覚だけに偏った「メシア」理解であって、例えば「木の枝のよう」と答えたペトロは、その木の枝の役割しか答えられず、また木の枝の可能性しか信じていませんでした。しかしそれはイエスの「メシア」を示す回答とは全く違います。

今日の福音のこのイエスとペトロとの問答までには、本当に「メシア」と知っていたのは敵対する悪霊のみでした。宣教活動のなかで出会った人々の理解を見てきた答えがペトロに凝縮され誤った信仰告白であったことが今日の私たちへの信仰の捉えなおさなければならない分岐点かも知れません。

このことはイエスが受難を受けることに対してペトロが諫めたことでその本性が現われます。私たちの神は人類の勝利者になる、いや、そうならなければ救いはないと信じていたからです。でもイエスは人の目には負けと見える受難と死を提示し、それでも信じるかと問い詰められます。人の目には不思議な光景です。なぜなら私たちも歴史上で活躍してきた人々を思うと、戦に負けた時点で英雄にはなれども勝利者にはならないと理解してきたからです。しかしイエスはそこに天の父が働き、救いの道を示すことをお示しになります。

私たちの発想では敗者が神になるという意識は、どう頑張っても生まれてこないでしょう。改めて、私たちが今まで見てきたことは何なのでしょうか。受難と死を超える希望を私たちの信仰の確信にできるのだろうか、それともこの世にとどまり誰の目から見ても勝利者となる方を望むのか。今日のヒントとして信仰の視点は、“私たちの感性の外”にある。神様は“私たちの視界の外から”やって来るということに目を向けたいと思います。現代の生活では私に不幸が押し寄せるこの状況を救いと呼べるのか?といつも悩むことが多いでしょう。しかし目の前の出来事に捕われるのは、ペトロの域を脱せない私たちの限界かも知れません。

私たちは象の一部を触って満足し、それを信じています。場合によっては確信まで高めてしまっています。確信を得た人はそこである意味盲目になってしまい「柱のようです」と考える人にとって、象という発想は意識の外で固定されてしまいます。ある意味私たちの信仰もそうなのかもしれないと自分を戒め、改めてイエスを追い求めていきたいと思います。不幸と感じられるその外に視点を移せるのか?神を求める心は何よりも固定概念を壊し、イエスを自由に受け入れることでしか「メシア」と答えられないからではないでしょうか。でもそういわれても難しいことには違いありませんが。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスは、十字架の苦しみをとおして、

  あなたに従う道を示してくださいました。

  イエスを救い主と信じるわたしたちを、

  みことばによって照らしてください。

  やみに迷うことなく、あなたへの道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節


 主なる神はわたしの耳を開かれた。

 わたしは逆らわず、退かなかった。

 

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

 

 主なる神が助けてくださるから

 わたしはそれを嘲りとは思わない。

 わたしは顔を硬い石のようにする。

 

 わたしは知っている

 わたしが辱められることはない、と。

 

 わたしの正しさを認める方は近くいます。

 誰がわたしと共に争ってくれるのか

 われわれは共に立とう。

 

 誰がわたしを訴えるのか

 わたしに向かって来るがよい。

 見よ、主なる神が助けてくださる。

 誰がわたしを罪に定めえよう。



第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節


 わたしの兄弟たち、

 

 自分は信仰を持っていると言う者がいても、

 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、

 その日の食べ物にも事欠いているとき、

 あなたがたのだれかが、彼らに、

 「安心して行きなさい。温まりなさい。

 満腹するまで食べなさい」と言うだけで、

 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

 信仰もこれと同じです。

 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」

 と言う人がいるかもしれません。

 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

 

 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。



福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節


 イエスは、弟子たちと

 フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

 

 その途中、弟子たちに、

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

 

 弟子たちは言った。

 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。

 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『

 預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

 そこでイエスがお尋ねになった。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 

 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

 

 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと

 弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、

 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、

 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。

 「サタン、引き下がれ。

 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」


 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、

 わたしに従いなさい。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

 わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。