湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。
2020年12月6日 待降節第2主日(マルコ、1章1~8節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
例年であれば、待降節のロウソクに火を灯して、毎週毎にクリスマスの近いことを確かめることができましたが、今年は、待降節中の主日に一回しかミサに参加できない、一回くらいしか待降節を祝えないということが起こり得ています。しかし、待降節の毎日曜日の福音を読み、できれば毎日の福音を読む時、日々クリスマスが近づいてくる足音を感じ取れるのではないかと思います。特に17日からの降誕祭前の九日間(ノヴェナ)の福音は、誕生物語の誕生前の部分が読まれますから、近づく足音をより切実に感じ取れます。
さて、今日の福音は、キリスト到来の先駆者として理解された洗礼者ヨハネの登場の場面です。『マルコ福音書』は、福音書のタイトルを表すような始まりを持つ唯一の福音書で、イエス様が神であり、キリストであることを理解してもらうために書かれました。もちろん福音書を聞く人たちは、それを信じる信徒ですが。とにかくマルコは、洗礼者ヨハネの宣教から福音書を書き始めています。この最初を聞くと、なんとなく「いよいよ、始まる」という、映画や演劇や演奏会の幕あけ直前の緊張感に似た気持ちになります。旧約聖書の預言書の引用をもつ書き出しは、この緊張感に荘厳さをも加えています。
洗礼者ヨハネは、先駆者ですから、幕開けを告げるものです。そこにはこれから登場して来るキリストと洗礼者との違う面があります。その大きな違いの一つが、「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」ということです。「聖霊で」とは、単に洗礼の方法や道具を意味しているわけではありません。また、後の時代のように、「聖霊」というと三位一体の一つの位格だけを指しているわけでもありません。旧約時代の神の霊の働きのように、もっと広い意味合いを持っています。旧約聖書には、神の霊がある人に下ると、その人が預言し始める、と言った例があります。
つまり、「その方の洗礼は、神様の霊の働き、神様の力によるものです」といった意味にもとれるでしょう。もちろん神様はいつでも働いておられますが、キリストの登場は、まさにそれ自体が、神様が私たちを新たにする、救うために直接働いてくださる、そうした時の始まりなのだという意味合いです。それは、私たち自身が変えられ、変わっていく時でもあるのです。私たちが待降節に待つ、その期待感、緊張感は、ここから来るのです。「いよいよ始まる」が「身に起こる」という感覚です。
クリスマスは、アドヴェント・カレンダーをめくるような待ち方もあるでしょうが、日々訪れてくれる神の訪れと結びつけていくとき、今年はただ一度の待降節のミサにしかあずかれないかもしれませんが、待降節、そして御降誕がより期待感と緊張感に満ちた「いよいよ始まるが身に起こる」という緊張した感覚で過ごすことができるのではないかと思います。