今日から待降節、新しい典礼暦年が始まります。
待降節を迎えるにあたって、11月28日にクリスマスの飾りつけを行いました。
松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。
『「目を覚ましていなさい」と言われ、いつまで目を覚ましていればいいのだろうか。果たしてその時とはどんな時なのだろうか。体力が限られている私たちに「起き続けろ」ということなのだろうか?聖書によく出てくる「目を覚ましていなさい」という言葉は時にはプレッシャーに聞こえる言葉であるが、福音書は喜びの知らせ。きっとそこに喜びがあるはずと捉えてみよう。そこでこの疑問を解くヒントとして、“時”の捉え方を整理してみてはどうだろう。
私たちは何かがやってくる瞬間を量的な時で考えます。例えばおなかが減った時、誰かと待ち合わせている時などは時間に伴う動きが解決します。しかし空が雲で覆われている時に突然一筋の光の筋が見える時があります。雲に覆われていた空が晴れなければ光が差し込まないと、ただ時間が経つのを待っている時がありますが、その時は突然しかも一瞬だけやってくることがあります。予測もつかないし対応はできない瞬間があります。逆にスコールなど、晴れている時に突然雨が降ることもあります。その地域の特性で雨が降ることがわかっていれば傘などを用意はできるでしょうが、旅先で突然見舞われると対応に困ります。このように予測できる時と、突然やってくる時があり、私たちは量的時間で測れない時がある事を知ります。さらに濃い時間、無駄な時間、貴重な時間など、他と比較ができないといった時間自体を質で測ることもあります。
今日の福音は、この時を瞬間の時と質の時と捉えるとどうだろう。「突然やってくる時」そして「目を覚ますべき質としての時」。3週間ほど前にミサで読まれた福音「賢い乙女と愚かな乙女」の箇所では花婿を迎えるために準備する油をめぐってやり取りされたが、油は分けられるものであったのに対し、内面にある花婿を迎える「愛」や「希望」というものは分けることは出来ない。つまり準備するのは灯の油とは物量ではなく質そのものであることが示されていた。今日の時も質を向上させ、いつでも対応できる準備をすることを大切にすると解釈すれば、私たちは今からそれに対応できる体と心づくりを始めることが問われているのだろう。急に腹筋が割れるわけもなく、長い距離を走れるわけでもない。つまり日ごろの体調管理が大事な様に心づくりも必要なのだ。御降誕にむけて、また新たな共同体づくりにむけて、そして今訪れているコロナ対策に向けて「明日からします!」とダイエットのように振舞うのではなく、今この瞬間からできる実践を始めることに意味があるのです。
先々週の福音「タラントの話」にあるようにタレントをいただいた私たちは、一人一人に与えられている個性を輝かせ、自分なりの歩みに任され一歩踏み出す勇気が与えられていることに喜びを感じたい。聖書の言葉で語るならば、一日でも早い預金は利息が多く付くからである。心豊かになることを望む主人の姿は、この1カ月のミサの朗読の中にふんだんに隠されていた。そして今日の福音にある主人である神様は、私たちを信じて仕事を託して旅に出られている。これは門番を信頼している主人の愛。私たちも応えられるように、神様の信頼と愛を感じながら今からできることを行う者になっていきましょう。「待降節に入りました」という準備の挨拶は、怠け心の多い私たちに「実践を再開する時です」という合図なのです。』