湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。
2020年11月8日 年間第32主日(マタイ、25章1~13節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音は、『マタイ福音書』の第五の説教集の後半に出てくる一つのたとえ話です。この部分は弟子たちに向けられた話で、一般の人たちに向けられたものではありません。つまり、キリスト者である私たちに向けられた言葉です。この前にあるノアの箱舟のたとえ話に出てくる、「目を覚まして」いなさいという言葉がここにも出てきます。どうやらこの言葉がこれらのたとえ話にとって重要な言葉のようです。この「目を覚まして」は、第一朗読にも登場してきます。ところが、この十人の乙女のたとえ話では、全員が眠りこけてしまいますから、「目を覚まして」とは、単純に「眠らない」ことを意味しているのではなさそうです。
ところで、「終活」という言葉を皆さんはご存知でしょう。今から十年ほど前から知られるようになった言葉で、自分の人生の終わりに向けた活動を意味しています。具体的には、遺言書を書いたり、お葬式や墓の準備をしたりなど、自分の身の回りの生前整理を意味していました。しかし、次第に「人生の終わりを考えることで、今をよりよく生きるための活動」を意味するようになりました。私たちは、「人はいつかは死ぬものだが、差し当たって今ではない、自分ではない」と自分とは無関係のものとして片づけています。しかし、終活は、その死を個人化します。即ち、自分の死を、自分の今の問題として取り上げ、今の自分を振り返り、意識して今を生きることを意味しています。
マタイのこの説教集は、神の国、特に終わりについてのイエス様の言葉で、旧約時代からある「黙示的説話」の形をとっています。この特徴の一つは、世の終わりについて語りながら、具体的個人的な今に目を向けさせることです。「死の個人化」に似ています。つまり、世の終わりを考えることで、今をよりよく生きることを勧告しています。『コへレトの言葉』の中に有名な「時の詩」があります。「すべてに時がある。……生まれる時、死ぬ時……泣く時、笑う時……抱擁する時、抱擁を遠ざける時……愛する時、憎む時」。コへレトは、まさに日常のあらゆる瞬間、それらの時が、神様の時、神様と触れる時になると述べています。
乙女たちにとって、居眠りしているその時が、「その時」になりました。「その時」、神様の声が聞こえます。「その時」は、灯を灯して、照らさなければならない「時」です。その「時」、油がない。油が必要な時に用意がなくて相応しく応えられない。その「時」肝心の物が用意できていない彼女らを「愚か」と呼んでいます。もしかしたら、そういう神様の時がある事にも気づいていないからかもしれませんね。神様の時、神様と出会う時、それは、日常茶飯事の出来事や人々の中にあるのです。「知恵の書」の言葉は、「(日常の彼方に)知恵(神様)に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵(神様)を思って目を覚ましていれば、心配も消える」と読むこともできます。 湯澤民夫