2020年11月1日日曜日

11月1日「諸聖人」

 松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


幼稚園児のハナコちゃんは、両手いっぱいにお菓子を握りしめながら私のところにやってきた。ちょうどシュークリームをもらったのであげようとしたが、突然泣き出した。「どうしたの?」と声をかけると、両手のお菓子は大好きなお友達からもらった大切なお菓子でした。でも好物のシュークリームも欲しい。手のお菓子を置く場所もない。選びたいのに選べない心の葛藤。子どもらしい姿でありながら、そこから私たちの至らなさも気づかされたことがあった。

さて、山上の説教と呼ばれる冒頭の言葉「心の貧しい人々は、幸いである」という呼びかけは、本来「なんと幸いなることだろうか!」という驚きの呼びかけの知らせであった。マタイ福音書ではその前に病人を癒す場面が描かれていることから、イエス様ご自身がおびただしい病人を癒しながら、ご自身につき従ってきた人々をご覧になり感激したのではないだろうか。今日の喜びのメッセージはこのようにイエス様も貧しい人々から元気をもらったと理解したい。私もハナコちゃんから学ばせてもらったからである。

本来の貧しい人々は、権力者から虐げられた人々を指す。お金・権力・経験・伝統・制度などなど、人間の活動や社会の活動によって積み重ねてきた物における圧力に押しつぶされている人々を指すのではないか。しかし、いつもイエスはその正反対の場に出向き、癒し慰め勇気を与えてきた。しかし与える以上にイエス様ご自身がいつも感情豊かに、時には憤慨し、時には逆上し、時には感動していた。イエス様の心を動かしたものは人々の目が届かないところにある信仰の強さなのでしょう。それがイエスを知らない人であっても、神と唱えなくとも、救い主を求める姿の中に見出したのかもしれない。異邦人に対して、また異邦人の土地における癒しはまさにそのことを物語る。

この地上において能力を持つということはそれぞれの分野で選ばれた人だけに与えられるかもしれないが、弱くなることは誰にでもできる。子どもが大人に突然なることは出来ないが、子どもを体験している大人が子どものようになることが出来ることと同じである。貧しくなる事とは、回心して自分が持つ何かを捨てる事であろう。断捨離すれば身軽になる。物を持てば引っ越しは大変である。私たち司祭が転勤するたびにそのことを強く感じる。身軽になればどこにでも行くことが出来る。心身ともに所有することに固執しない生活を送りたいものだ。ハナコちゃんはそれを私に教えてくれたのだった。

聖人とは必ずしも私たちが理解するような立派な人ではありません。失敗も犯すような私たちと変わらない人です。罪もあります。しかしそれ以上にその人が活動や救い主である神へと、多くの人を導く活動を行えた人びとなのでしょう。皆さんも是非周りの人たちを眺めて聖人がいないか探してみてはいかがだろうか。かつてヨハネパウロ二世は青年たちに強く呼びかけました。「あなた方も聖人になりなさい!」と。実は私たちも聖人の延長線上におり、その可能性が開かれているからです。